た。へんな憂愁が浦島の胸中に湧いて出る。ああ、お礼を言ふのを忘れた。あんないいところは、他に無いのだ。ああ、いつまでも、あそこにゐたはうがよかつた。しかし、私は陸上の人間だ。どんなに安楽な暮しをしてゐても、自分の家が、自分の里が、自分の頭の片隅にこびりついて離れぬ。美酒に酔つて眠つても、夢は、故郷の夢なんだからなあ。げつそりするよ。私には、あんないいところで遊ぶ資格は無かつた。
「わあ、どうも、いかん。淋しいわい。」と浦島はやけくそに似た大きい声で叫んだ。「なんのわけだかわからないが、どうも、いかん。おい、亀。何とか、また景気のいい悪口でも言つてくれ。お前は、さつきから、何も一ことも、ものを言はんぢやないか。」
 亀は先刻から、ただ黙々と鰭を動かしてゐるばかり。
「怒つてゐるのかね。私が竜宮から食ひ逃げ同様で帰るのを、お前は、怒つてゐるのかね。」
「ひがんぢやいけねえ。陸上の人はこれだからいやさ。帰りたくなつたら帰るさ。どうでも、あなたの気の向いたやうに、とはじめから何度も言つてるぢやないか。」
「でも、何だかお前、元気が無いぢやないか。」
「さう言ふあなたこそ、妙にしよんぼりしてゐるぜ。私や、どうも、お迎へはいいけれど、このお見送りつてやつは苦手だ。」
「行きはよいよい、かね。」
「洒落どころぢやありません。どうも、このお見送りつてやつは、気のはづまねえものだ。溜息ばかり出て、何を言つてもしらじらしく、いつそもう、この辺でお別れしてしまひたいやうなものだ。」
「やつぱり、お前も淋しいのかね。」浦島は、ほろりとして、「こんどはずいぶん、お前のお世話にもなつたね。お礼を言ひます。」
 亀は返事をせず、なんだそんなこと、と言はぬばかりにちよつと甲羅をゆすつて、さうしてただ、せつせと泳ぐ。
「あのお方は、やつぱりあそこで、たつたひとりで遊んでゐるのだらうね。」浦島は、いかにもやるせないやうな溜息をついて、「私にこんな綺麗な貝をくれたが、これはまさか、食べるものぢやないだらうな。」
 亀はくすくす笑ひ出し、
「ちよつと竜宮にゐるうちに、あなたも、ばかに食ひ意地が張つて来ましたね。それだけは、食べるものでは無いやうです。私にもよくわかりませんが、その貝の中に何かはひつてゐるのぢやないんですか?」と亀は、ここに於いて、かのエデンの園の蛇の如く、何やら人の好奇心をそそるやうな妙な
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