、これは、いいからなあ。これさへあれば、何も要らない。もつといただいてもいいかしら。」
「ええ、どうぞ。ここへ来て遠慮なんかするのは馬鹿げてゐます。あなたは無限に許されてゐるのです。ついでに何か食べてみたらどうです。目に見える岩すべて珍味です。油つこいのがいいですか。軽くちよつと酸つぱいやうなのがいいですか。どんな味のものでもありますよ。」
「ああ、琴の音が聞える。寝ころんで聞いてもいいんだらうね。」無限に許されてゐるといふ思想は、実のところ生れてはじめてのものであつた。浦島は、風流の身だしなみも何も忘れて、仰向にながながと寝そべり、「ああ、あ、酔つて寝ころぶのは、いい気持だ。ついでに何か、食べてみようかな。雉の焼肉みたいな味の藻があるかね。」
「あります。」
「それと、それから、桑の実のやうな味の藻は?」
「あるでせう。しかし、あなたも、妙に野蛮なものを食べるのですね。」
「本性暴露さ。私は田舎者だよ。」と言葉つきさへ、どこやら変つて来て、「これが風流の極致だつてさ。」
眼を挙げて見ると、はるか上方に、魚の天蓋がのどかに浮び漂つてゐるのが、青く霞んで見える。とたちまち、その天蓋から一群の魚がむらむらとわかれて、おのおの銀鱗を光らせて満天に雪の降り乱れるやうに舞ひ遊ぶ。
竜宮には夜も昼も無い。いつも五月の朝の如く爽やかで、樹陰のやうな緑の光線で一ぱいで、浦島は幾日をここで過したか、見当もつかぬ。その間、浦島は、それこそ無限に許されてゐた。浦島は、乙姫のお部屋にも、はひつた。乙姫は何の嫌悪も示さなかつた。ただ、幽かに笑つてゐる。
さうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が恋しくなつた。お互ひ他人の批評を気にして、泣いたり怒つたり、ケチにこそこそ暮してゐる陸上の人たちが、たまらなく可憐で、さうして、何だか美しいもののやうにさへ思はれて来た。
浦島は乙姫に向つて、さやうなら、と言つた。この突然の暇乞ひもまた、無言の微笑でもつて許された。つまり、何でも許された。始めから終りまで、許された。乙姫は、竜宮の階段まで見送りに出て、黙つて小さい貝殻を差し出す。まばゆい五彩の光を放つてゐるきつちり合つた二枚貝である。これが所謂、竜宮のお土産の玉手箱であつた。
行きはよいよい帰りはこはい。また亀の背に乗つて、浦島はぼんやり竜宮から離れ
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