出来たのがうれしく、胸のしこりも、少し溶けたような気持で、その夜は、久しぶりに朝まで寝ぐるしい思いをせずにとろとろと眠れました。
 これからは、何でもこの調子で、軽く夫に甘えて、冗談を言い、ごまかしだって何だってかまわない、正しい態度で無くったってかまわない、そんな、道徳なんてどうだっていい、ただ少しでも、しばらくでも、気持の楽な生き方をしたい、一時間でも二時間でもたのしかったらそれでいいのだ、という考えに変って、夫をつねったりして、家の中に高い笑い声もしばしば起るようになった矢先、或《あ》る朝だしぬけに夫は、温泉に行きたいと言い出しました。
「頭がいたくてね、暑気《しょき》に負けたのだろう。信州のあの温泉、あのちかくには知ってる人もいるし、いつでもおいで、お米持参の心配はいらない、とその人が言っているんだ。二、三週間、静養して来たい。このままだと、僕は、気が狂いそうだ。とにかく、東京から逃げたいんだ。」
 そのひとから逃げたくなって、旅に出るのかしら、とふと私は考えました。
「お留守《るす》のあいだに、ピストル強盗がはいったら、どうしよう。」
 と私は笑いながら、(ああ、悲しいひとたちは、よく笑う)そう言いますと、
「強盗に申し上げたらいいさ、あたしの亭主は気違いですよ、って。ピストル強盗も、気違いには、かなわないだろう。」
 旅に反対する理由もありませんでしたので、私は夫のよそゆきの麻《あさ》の夏服を押入《おしいれ》から取り出そうとして、あちこち捜しましたが、見当りませんでした。
 私は青白くなった気持で、
「無いわ。どうしたのでしょう。空巣《あきす》にはいられたのかしら。」
「売ったんだ。」
 夫は泣きべそに似た笑い顔をつくって、そう言いました。
 私は、ぎょっとしましたが、しいて平気を装《よそお》って、
「まあ、素早い。」
「そこが、ピストル強盗よりも凄《すご》いところさ。」
 その女のひとのために、内緒《ないしょ》でお金の要る事があったのに違いないと私は思いました。
「それじゃ、何を着ていらっしゃるの?」
「開襟《かいきん》シャツ一枚でいいよ。」
 朝に言い出し、お昼にはもう出発ということになりました。一刻も早く、家から出て行きたい様子でしたが、炎天つづきの東京にめずらしくその日、俄雨《にわかあめ》があり、夫は、リュックを背負い靴をはいて、玄関の式台に腰を
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