のために、食べものが喉《のど》をとおらぬ思いで、頬《ほお》の骨が目立って来て、赤ん坊にあげるおっぱいの出もほそくなり、夫も、食《しょく》がちっともすすまぬ様子で、眼が落ちくぼんで、ぎらぎらおそろしく光って、或《あ》る時、ふふんとご自分をあざけり笑うような笑い方をして、
「いっそ発狂しちゃったら、気が楽だ。」
と言いました。
「あたしも、そうよ。」
「正しいひとは、苦しい筈《はず》が無い。つくづく僕は感心する事があるんだ。どうして、君たちは、そんなにまじめで、まっとうなんだろうね。世の中を立派に生きとおすように生れついた人と、そうでない人と、はじめからはっきり区別がついているんじゃないかしら。」
「いいえ、鈍感なんですのよ、あたしなんかは。ただ、……」
「ただ?」
夫は、本当に狂ったひとのような、へんな目つきで私の顔を見ました。私は口ごもり、ああ、言えない、具体的な事は、おそろしくて、何も言えない。
「ただね、あなたがお苦しそうだと、あたしも苦しいの。」
「なんだ、つまらない。」
と、夫は、ほっとしたように微笑《ほほえ》んでそう言いました。
その時、ふっと私は、久方振《ひさかたぶ》りで、涼《すず》しい幸福感を味わいました。(そうなんだ、夫の気持を楽にしてあげたら、私の気持も楽になるんだ。道徳も何もありやしない、気持が楽になれば、それでいいんだ。)
その夜おそく、私は夫の蚊帳《かや》にはいって行って、
「いいのよ、いいのよ。なんとも思ってやしないわよ。」
と言って、倒れますと、夫はかすれた声で、
「エキスキュウズ、ミイ。」
と冗談めかして言って、起きて、床の上にあぐらをかき、
「ドンマイ、ドンマイ。」
夏の月が、その夜は満月でしたが、その月光が雨戸の破れ目から細い銀線になって四、五本、蚊帳の中にさし込んで来て、夫の痩《や》せたはだかの胸に当っていました。
「でも、お痩せになりましたわ。」
私も、笑って、冗談めかしてそう言って、床の上に起き直りました。
「君だって、痩せたようだぜ。余計な心配をするから、そうなります。」
「いいえ、だからそう言ったじゃないの。なんとも思ってやしないわよ、って。いいのよ、あたしは利巧《りこう》なんですから。ただね、時々は、でえじにしてくんな。」
と言って私が笑うと、夫も月光を浴びた白い歯を見せて笑いました。私の小さい頃に死
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