は、旅行の第一日に於て、既に旅行をいやになるほど満喫し、二日目は、旅費の殆んど全部を失っていることに気がつき、旅の風景を享楽するどころか、まことに俗な、金銭の心配だけで、へとへとになり、旅行も地獄、這《は》うようにして女房の許に帰り、そうして女房に怒られて居るものである。
 旅行上手の者に到っては、事情がまるで正反対である。
 ここで、具体的に井伏さんの旅行のしかたを紹介しよう。
 第一に、井伏さんは釣道具を肩にかついで旅行なされる。井伏さんが本心から釣が好きということについては、私にもいささか疑念があるのだが、旅行に釣竿《つりざお》をかついで出掛けるということは、それは釣の名人というよりは、旅行の名人といった方が、適切なのではなかろうかと考えて居る。
 旅行は元来(人間の生活というものも、同じことだと思われるが)手持ち無沙汰なものである。朝から晩まで、温泉旅館のヴェランダの籐椅子に腰掛けて、前方の山の紅葉を眺めてばかり暮すことの出来る人は、阿呆ではなかろうか。
 何かしなければならぬ。
 釣。
 将棋。
 そこに井伏さんの全霊が打ち込まれているのだかどうだか、それは私にもわからないが
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