かご》に閉じこめて、歌わせようとするのも同じではないか。蘭《らん》類が温室で、人工の熱によって息づまる思いをしながら、なつかしい南国の空を一目見たいとあてもなくあこがれているとだれが知っていよう。
花を理想的に愛する人は、破れた籬《まがき》の前に座して野菊と語った陶淵明《とうえんめい》や、たそがれに、西湖《せいこ》の梅花の間を逍遙《しょうよう》しながら、暗香浮動の趣に我れを忘れた林和靖《りんかせい》のごとく、花の生まれ故郷に花をたずねる人々である。周茂叔《しゅうもしゅく》は、彼の夢が蓮《はす》の花の夢と混ずるように、舟中に眠ったと伝えられている。この精神こそは奈良朝《ならちょう》で有名な光明皇后《こうみょうこうごう》のみ心《こころ》を動かしたものであって、「折りつればたぶさにけがるたてながら三世《みよ》の仏に花たてまつる(三二)。」とお詠《よ》みになった。
しかしあまりに感傷的になることはやめよう。奢《おご》る事をいっそういましめて、もっと壮大な気持ちになろうではないか。老子いわく「天地不仁(三三)。」弘法大師《こうぼうだいし》いわく「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥《くら》し(三四)。」われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか。この二者はただ互いに相対しているものであって、梵《ブラーマン》(三五)の昼と夜である。古きものの崩解によって改造が可能となる。われわれは、無情な慈悲の神「死」をば種々の名前であがめて来た。拝火教徒が火中に迎えたものは、「すべてを呑噬《どんぜい》するもの」の影であった。今日でも、神道の日本人がその前にひれ伏すところのものは、剣魂《つるぎだましい》の氷のような純潔である。神秘の火はわれらの弱点を焼きつくし、神聖な剣は煩悩《ぼんのう》のきずなを断つ。われらの屍灰《しかい》の中から天上の望みという不死の鳥が現われ、煩悩を脱していっそう高い人格が生まれ出て来る。
花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚《こうしょう》にする事ができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚《せいそ》」に身をささげる事によってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。
わが茶や花の宗匠のやり口を知っている人はだれでも、彼らが宗教的の尊敬をもって花を見る事に気がついたに違いない。彼らは一枝一条もみだりに切り取る事をしないで、おのが心に描く美的配合を目的に注意深く選択する。彼らは、もし絶対に必要の度を越えて万一切り取るようなことがあると、これを恥とした。これに関連して言ってもよろしいと思われる事は、彼らはいつも、多少でも葉があればこれを花に添えておくという事である。というのは、彼らの目的は花の生活の全美を表わすにあるから。この点については、その他の多くの点におけると同様、彼らの方法は西洋諸国に行なわれるものとは異なっている。かの国では、花梗《かこう》のみ、いわば胴のない頭だけが乱雑に花瓶《かびん》にさしこんであるのをよく見受ける。
茶の宗匠が花を満足に生けると、彼はそれを日本間の上座にあたる床の間に置く。その効果を妨げるような物はいっさいその近くにはおかない。たとえば一幅の絵でも、その配合に何か特殊の審美的理由がなければならぬ。花はそこに王位についた皇子のようにすわっている、そして客やお弟子《でし》たちは、その室に入るやまずこれに丁寧なおじぎをしてから始めて主人に挨拶《あいさつ》をする。生花の傑作を写した絵が素人《しろうと》のために出版せられている。この事に関する文献はかなり大部なものである。花が色あせると宗匠はねんごろにそれを川に流し、または丁寧に地中に埋める。その霊を弔って墓碑を建てる事さえもある。
花道の生まれたのは十五世紀で、茶の湯の起こったのと同時らしく思われる。わが国の伝説によると、始めて花を生けたのは昔の仏教徒であると言う。彼らは生物に対する限りなき心やりのあまり、暴風に散らされた花を集めて、それを水おけに入れたということである。足利義政《あしかがよしまさ》時代の大画家であり、鑑定家である相阿弥《そうあみ》は、初期における花道の大家の一人であったといわれている。茶人|珠光《しゅこう》はその門人であった。また絵画における狩野《かのう》家のように、花道の記録に有名な池の坊の家元|専能《せんのう》もこの人の門人であった。十六世紀の後半において、利休によって茶道が完成せられるとともに、生花も充分なる発達を遂げた。利休およびその流れをくんだ有名な織田有楽《おだうらく》、古田織部《ふるたおりべ》、光悦《こうえつ》、小堀遠州《こぼりえんしゅう》、片桐石州《かたぎりせきしゅう》らは新たな配合を作ろうとして互いに相競った。しかし茶人たちの花の尊崇は、ただ彼らの審美的儀式の一部をなしたに過ぎないのであって、それだけが独立して、別の儀式をなしてはいなかったという事を忘れてはならぬ。生花は茶室にある他の美術品と同様に、装飾の全配合に従属的なものであった。ゆえに石州は「雪が庭に積んでいる時は白い梅花を用いてはならぬ。」と規定した。「けばけばしい」花は無情にも茶室から遠ざけられた。茶人の生けた生花はその本来の目的の場所から取り去ればその趣旨を失うものである。と言うのは、その線やつり合いは特にその周囲のものとの配合を考えてくふうしてあるのであるから。
花を花だけのために崇拝する事は、十七世紀の中葉、花の宗匠が出るようになって起こったのである。そうなると茶室には関係なく、ただ花瓶《かびん》が課する法則のほかには全く法則がなくなった。新しい考案、新しい方法ができるようになって、これらから生まれ出た原則や流派がたくさんあった。十九世紀のある文人の言うところによれば、百以上の異なった生花の流派をあげる事ができる。広く言えばこれら諸流は、形式派と写実派の二大流派に分かれる。池の坊を家元とする形式派は、狩野派《かのうは》に相当する古典的理想主義をねらっていた。初期のこの派の宗匠の生花の記録があるが、それは山雪《さんせつ》や常信《つねのぶ》の花の絵をほとんどそのままにうつし出したものである。一方写実派はその名の示すごとく、自然をそのモデルと思って、ただ美的調和を表現する助けとなるような形の修正を加えただけである。ゆえにこの派の作には浮世絵や四条派の絵をなしている気分と同じ気分が認められる。
時の余裕があれば、この時代の幾多の花の宗匠の定めた生花の法則になお詳細に立ち入って、徳川時代の装飾を支配していた根本原理を明らかにすること(そうすれば明らかになると思われるが)は興味あることであろう。彼らは導く原理(天)、従う原理(地)、和の原理(人)のことを述べている、そしてこれらの原理をかたどらない生花は没趣味な死んだ花であると考えられた。また花を、正式、半正式、略式の三つの異なった姿に生ける必要を詳述している。第一は舞踏場へ出るものものしい服装をした花の姿を現わし、第二はゆったりとした趣のある午後服の姿を現わし、第三は閨房《けいぼう》にある美しい平常着の姿を現わすともいわれよう。
われらは花の宗匠の生花よりも茶人の生花に対してひそかに同情を持つ。茶人の花は、適当に生けると芸術であって、人生と真に密接な関係を持っているからわれわれの心に訴えるのである。この流派を、写実派および形式派と対称区別して、自然派と呼びたい。茶人たちは、花を選択することでかれらのなすべきことは終わったと考えて、その他のことは花みずからの身の上話にまかせた。晩冬のころ茶室に入れば、野桜の小枝につぼみの椿《つばき》の取りあわせてあるのを見る。それは去らんとする冬のなごりときたらんとする春の予告を配合したものである。またいらいらするような暑い夏の日に、昼のお茶に行って見れば、床の間の薄暗い涼しい所にかかっている花瓶《かびん》には、一輪の百合《ゆり》を見るであろう。露のしたたる姿は、人生の愚かさを笑っているように思われる。
花の独奏《ソロ》はおもしろいものであるが、絵画、彫刻の協奏曲《コンチェルト》となれば、その取りあわせには人を恍惚《こうこつ》とさせるものがある。石州はかつて湖沼の草木を思わせるように水盤に水草を生けて、上の壁には相阿弥《そうあみ》の描いた鴨《かも》の空を飛ぶ絵をかけた。紹巴《じょうは》という茶人は、海辺の野花と漁家の形をした青銅の香炉に配するに、海岸のさびしい美しさを歌った和歌をもってした。その客人の一人は、その全配合の中に晩秋の微風を感じたとしるしている。
花物語は尽きないが、もう一つだけ語ることにしよう。十六世紀には、朝顔はまだわれわれに珍しかった。利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精《たんせい》こめて培養した。利休の朝顔の名が太閤《たいこう》のお耳に達すると太閤はそれを見たいと仰せいだされた。そこで利休はわが家の朝の茶の湯へお招きをした。その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えなかった。地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてあった。その暴君はむっとした様子で茶室へはいった。しかしそこにはみごとなものが待っていて彼のきげんは全くなおって来た。床の間には宋細工《そうざいく》の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった。
こういう例を見ると、「花御供《はなごく》」の意味が充分にわかる。たぶん花も充分にその真の意味を知るであろう。彼らは人間のような卑怯者《ひきょうもの》ではない。花によっては死を誇りとするものもある。たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。吉野《よしの》や嵐山《あらしやま》のかおる雪崩《なだれ》の前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたであろう。宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く。」というようである。
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第七章 茶の宗匠
宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である。ゆえに彼らは茶室において得た風流の高い軌範によって彼らの日常生活を律しようと努めた。すべての場合に心の平静を保たねばならぬ、そして談話は周囲の調和を決して乱さないように行なわなければならぬ。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子などすべてが芸術的人格の表現でなければならぬ。これらの事がらは軽視することのできないものであった。というのは、人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。われらに認めたい心さえあれば完全は至るところにある。利休は好んで次の古歌を引用した。
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花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや(三六)
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茶の宗匠たちの芸術に対する貢献は実に多方面にわたっていた。彼らは古典的建築および屋内の装飾を全く革新して、前に茶室の章で述べた新しい型を確立した。その影響は十六世紀以後に建てられた宮殿寺院さえも皆これをうけている。多能な小堀遠州《こぼりえんしゅう》は、桂《かつら》の離宮、名古屋《なごや》の城および孤篷庵《こほうあん》に、彼が天才の著名な実例をのこしている。日本の有名な庭園は皆茶人によって設計せられたものである。わが国の陶器はもし彼らが鼓舞を与えてくれなかったら、優良な品質には
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