れ出た原則や流派がたくさんあった。十九世紀のある文人の言うところによれば、百以上の異なった生花の流派をあげる事ができる。広く言えばこれら諸流は、形式派と写実派の二大流派に分かれる。池の坊を家元とする形式派は、狩野派《かのうは》に相当する古典的理想主義をねらっていた。初期のこの派の宗匠の生花の記録があるが、それは山雪《さんせつ》や常信《つねのぶ》の花の絵をほとんどそのままにうつし出したものである。一方写実派はその名の示すごとく、自然をそのモデルと思って、ただ美的調和を表現する助けとなるような形の修正を加えただけである。ゆえにこの派の作には浮世絵や四条派の絵をなしている気分と同じ気分が認められる。
時の余裕があれば、この時代の幾多の花の宗匠の定めた生花の法則になお詳細に立ち入って、徳川時代の装飾を支配していた根本原理を明らかにすること(そうすれば明らかになると思われるが)は興味あることであろう。彼らは導く原理(天)、従う原理(地)、和の原理(人)のことを述べている、そしてこれらの原理をかたどらない生花は没趣味な死んだ花であると考えられた。また花を、正式、半正式、略式の三つの異なった姿に生
前へ
次へ
全102ページ中86ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
村岡 博 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング