死に死に死んで死の終わりに冥《くら》し(三四)。」われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか。この二者はただ互いに相対しているものであって、梵《ブラーマン》(三五)の昼と夜である。古きものの崩解によって改造が可能となる。われわれは、無情な慈悲の神「死」をば種々の名前であがめて来た。拝火教徒が火中に迎えたものは、「すべてを呑噬《どんぜい》するもの」の影であった。今日でも、神道の日本人がその前にひれ伏すところのものは、剣魂《つるぎだましい》の氷のような純潔である。神秘の火はわれらの弱点を焼きつくし、神聖な剣は煩悩《ぼんのう》のきずなを断つ。われらの屍灰《しかい》の中から天上の望みという不死の鳥が現われ、煩悩を脱していっそう高い人格が生まれ出て来る。
花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚《こうしょう》にする事ができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわ
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