はまだ乏しくないのだ。
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揚り凧
一度は世に捨て果てて顧みられざった名物の凧も、この両三年已来再び新玉の空に勇ましき唸りを聞かせて、吾儕の心を誘《そそ》るは何よりも嬉しい。
昔時は大の男幾人、木遣りで揚げたというほどの大凧も飛んだと聞くが、子供には手頃でいつの時にも行わるるのは二枚半の絵凧である。
武蔵野を吹き暴るるからッ風の音、ヒュウヒュウと顔に鳴るとき鯨髭の弓弦もそれに劣らず唸り出しては、江戸ッ児の心自らジッとしておられず、二枚半の糸目を改めて雁木鎌幾つかを結びつけ、履物もそそくさと足に突ッかけて飛出すが例である。実にこの揚り凧の唸りほど江戸ッ児の気勢《きお》いとなるものはない。
火事と喧嘩はまた江戸の名物だ、かれらは携えゆいた二枚半をとばすや否な、大空を吾がもの顔に振舞っておる他の絵凧に己が凧をからまし、ここに手練の限りを尽くして彼これ凧糸の切りあいを試み、以て互いにその優劣を争う、江戸ッ児の生存競争は早く既に地上のみに行われつつあったのではなかった。打ち仰ぐ紺碧の空に、道心格子、月なみ、三人立ち五人立ちの武者絵凧が、或は勝鬨をあげ、或は闘いを挑む
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