までも江戸ッ児は芝居気があっておかしい。
芝居気といえば、朝顔の夏を入谷なる何がしの寺で、態々かけだしをものしての伝道布教、麦湯のふるまいに浮き足になりながらでも聴聞してゆく人の多いは、これも一碗の恩恵に折からの渇を医し得た義理ゆえもあろうが、場所だけに何やらん面白い感じがする。
さて朝顔は、ここを本場とはするものの、育ちは亀戸で、さるは恰も田舎人が漸く都会の生活になれて、やがては東京ッ児となりおおするにも似てはいまいか。亀戸の植木屋はとんだ九太夫役を承ったものだ。
蓮は花の白きをこそ称すれ、彼の朝靄に包まれて姿朧なる折柄、東の空に旭の初光チラと見ゆるや否、ポッ! ポッ! と静かなる音して、今まで蕾なりし花の唇|頓《とみ》に微笑み、ある限りの人々ただ夢を辿るおもい、淡い自覚に吾がうつつなるを辛くも悟り得る際の心地、西の国々の詩人が悦ぶはこうした砌《みぎり》の感じでもあろうか。
朝の不忍に池畔のそぞろ歩きすれば、この種の趣致は思うままに味われる。江戸ッ児は常にこの趣致を愛する、然りただそれこれを愛する、余には深い意味も何もあったものではない。
蓮はなお芝公園にも浅草公園にもある
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