ばなを振り、残れるを井戸やども盃に受けて呑む。
 蓋《ふた》された井戸の側に佇んで耳傾くれば、今し晒された井戸には新たに湧き出でた清水の底に落つる音折々に聞えて、心ゆくこと限りなく、江戸ッ児はそのすがすがしき滴《したた》りの音聞くを欣びて、井戸やが縄に吾から手伝うもの多く、さらし井の気勢いは朝の屋敷町に時ならぬ賑わいを見することがある。
 さあれこの井戸がえというもの上下貴賤にけじめなく、華族様のお屋敷でも、素町人どもの裏長屋でも、同じ懸け声に同じ賑わい、井戸やが撒く清酒も塩ばなも、畢竟《ひっきょう》は水を浄めの同じしるしに過ぎずして、六根清浄、江戸ッ児はその清新をこれ愛する、清浄をこれ好む、実にかれらは詩をつくらざる気分詩人ではあるまいか。
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 箱庭と灯籠



 稗蒔の穂延びして漸く趣薄うなり行くにつれ、江戸ッ児の愛自然心は更に箱庭に馳せて、やがて尺寸の天地を新たに劃する。
 曩《さき》には専ら田園の趣味を伝えしもの、這度《このたび》は山野に則り、忽ちにして森林、忽ちにして沼池、一径尽くるところ橋ありて通じ、湖海ひろがるところ丘陵峙つの概、かれらの理想説は如此《かく
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