暗く、かは誰の人顔も定かならぬ折柄、椽近く座を占めて仰ぐ軒端に、さり気ない釣忍の振舞いもなかなかに悪からず、眺め深いものだ。
「なぜ風鈴の一つも下げないのだな」
 もしくは――
「ここの処へ忍でも釣るしたらなァ」
 これらの言葉が江戸ッ児によって繰返さるることは、強ち稀らしくないことで、かれらはお世辞でも、いきあたりばったりでもなく、そう感じてそういうのだ。
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 井戸がえ



 山の手の井戸は一体に底も深く、したがって湧出る水も清冽だ。さるをその井戸、水道という便利なものが出来て、次第に取こぼたれ、今はその数も尠うなったので、初夏の午前に、五、七人の井戸やして太やかな縄に纏わり、井に降り立った男の中からの合図につれ、滑車を辷《すべ》り来る縄を曳いて、井水をかえ出す様、漸くこれを見ること稀々にはなったが、かれらの懸け声とザァザッと覆さるる水の音を聞く砌《みぎり》は、ただ清々しく心楽しきものである。
「ほゥてよ※[#小書き片仮名ン、110−2]………ほゥ………」
 繰りかえさるるその懸け声の度々に、ザァザッという水音、かくて替えつくされた井戸には、盃に三杯の清酒を撒いて塩
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