ったくて辛抱出来まいと思の外、何がさて洒落と典雅とを欣ぶその趣味性には、ザックバランなことばかりに限らず、かかる式楽も殊の外に興がって、今に参観の者尠くない。
 又この天満宮に行わるる鷽替《うそかえ》の神事も、筑紫のを移したのだが、これとて昔に変らぬ有様。ただ変ったのは未明に参詣して行逢う人同士携えたを替るが、風俗上の取締りから禁じられて、幾分興味を淡くしたまで、元来が受けて来る鷽の疎刻《あらきざみ》が如何にも古雅で、近頃は前年のを持ちゆいて替えて来る向も尠くなった。要するに信心気は減ったが、趣味はなお存しておるのだ。
 鷽は国音嘘に通ず、故に昔は去年の鷽を返して今年の鷽を新たに受けて来たものだが、今は前年のまでも返さぬという、江戸ッ児は嘘が身上で、それがなかったら上ったりだろうなぞと、口さがない悪たれ言も聞かぬではないが、そんな人にはてんでお話が出来ず、俳諧の風雅を愛し、その情味を悟るほどの人ならば、そんな野暮は仰有《おっしゃ》るまいと実は気にする者がないということだ。はッくしょい! ハテ誰かまた陰口を利いておるそうな、いいわ、まず打遣《うっちゃ》っておけ……。
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