、腹も懐も温くはならず、さればその懐に忍ばせたもの、懐炉温石のたぐいにあらずして十二枚一組の極彩色、中なるは手易くあけて見せずに、客を択っても怪しい笑顔「へえ如何です」なぞは五十歩百歩かは知らぬが下りはてたもの、変れば変るものだと昔の若い人が妙に感心していた。
「河内瓢箪山稲荷辻占」恋の判断を小さな紙に記して、夜長の伽《とぎ》に売りあるく生業、これも都にフッツリ影を留めずなって、名物かりん糖の中に交れるを買って見るなど、今は恋にも喰意地がついてまわるとは情ない限りだ。
 彼の辻占売りあるく男の、チラと見た怪し姿に、一声高く「恋のゥ辻占ァ――」と呶鳴っておいて、俄に変る股だち腕まくり、新派にはよくある型だが、曾ては刑事のこれ化けたも真実にあるとか、人間というもいつも芝居ッ気を放れぬところが頼もしいと此方とらは思う。
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 おさらい



 長唄、清元、常磐津、さては歌沢、振り事など、歌舞の道にお師匠さんたるもの、互いに己が弟子の上達を誇りに、おさらいというもの、多くは秋の長夜を利して催すが例である。
 設けの席は弟子の多寡にもよるべく、貸席、しもた家、乃至はまたお師匠さん自身の家、招く人の数に準じて座敷幾つかを打ちぬきにし、緋毛氈に飾られた高座を正面に、紫の幔幕結いまわし、それへかけつらねたビラ幾十枚、それもこれも数の多いが自慢で、若い娘達の※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]々という声、花も蕾のかれらにはいつも心長閑にして春のようなであろう。
 秋のおさらいは昼よりも灯する頃より夜と共に興|闌《たけなわ》なるがつねだ。彼の銀燭に蝋燭の火ざし華やかに、番組も序の口を終ったほどから、聴衆も居ずまいを直して耳傾くれば、お師匠さんの身の入れ方も一倍深くなって、三味線の音色撥さばき諸共に冴え、人々の心次第に誘われてゆく。
 弾き語りもすんで、立唄、立三味線、高座にずらりと並居てのおさらいは、その日の呼び物だけにグッと景気づき、後見にまわったお師匠さんの気の張りも強くなる。
 こうして一わたりすむと中入りには菓弁寿の御馳走、娘達はお世辞の言いくらやら、申訳のしあいやらで、小鳥の百々囀《さえず》り、良時はただ喧ましく賑わしく、さて再び柝を入れると俄に鎮まりかえって満場ただ水を打ったよう……と見るもほんの一[#(ト)]時すぐに又どこやらでヒソヒソ話が始まって、それが彼方此方へと移ってゆく。
 それよりして千秋楽までは代稽古するほどの腕前揃い、ツイその撥に咽喉に魅せられて帰るさは酔ったよう。勿論おみきの利目も少しは手伝っておることと知るべきだ。
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 常磐津、清元、歌沢



 江戸趣味の音楽として、吾儕は先ず常磐津をその一つに数え、次いで清元、歌沢をあげたいと思う。
 長唄は植木店の家元といい、分家の岡安一派まで、いずれ江戸ッ児ならぬはないが、趣味の上からは、チト野暮なを如何せん。
 さるにても常磐津といい清元といい、年々に名人の病衰して亡びゆくこと、時にとっての何ぼうの損失であるよう……。
 昔者は霜白き旦、さては風冴ゆる夕べの火の見などに出て、温めねば鼓さえ凍るほどなを、手に覚えのなくなるまでも寒稽古励んで腕を研き、互いに名人の域に達せねば止まじと振舞うたので、この道の達者世に続出して、自ずとこうした趣味の普及もなりはしたが、今はさばかりに芸道に出精の者もなく、趣味も漸く廃れゆくこそ却々《なかなか》に口惜しい。
 歌沢とても芝金の一派、寅右衛門の一派など両々腕を競えど、未だ技の疇昔《ちゅうせき》に及ぶものなく、今し音曲の江戸趣味はこれらには残れ、どうやら灯将に尽きんとして更に明を加うというような感がしてならぬ。
 入神の妙技はさて措くとしても、これも残された江戸趣味の一つとして見れば、実はここらからその復興を企てて、新しい江戸を東京の今にものしたいものだと、まァさ、折角そんなに思っているので、こちとらは随分椽の下の力持ちもしてえる奴さ。どうですえ、親方とか太夫とか、乃至は師匠とか言われてござる御仁、もちっと、何と骨を折って見てくれる気はねえものか知らんて!
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 お会式



 毎年陰暦十月十三日、祖師日蓮の忌日を卜して執行の法会をお会式とはいい、宗徒は又おめいこうとて本山に参籠する。池上の本門寺、堀内のお祖師様など、江戸以来の霊場で、遠くは中山の法華経寺へも出かける。
 この御会式、昔者《せきしゃ》は今よりも荘厳にものされた代りには、お籠りの男女、夜暗に互いのおもいを通わせ、日頃の恋をその夜に遂ぐるなど、とんだ粋ごとも行われて、あんまり一貫三百ただ取りでもなかったらしく、団扇太鼓の響きと共に、それよりして浮名の立ち初むるも多かったが、今は風俗上の取締り行届いて、この霊場を汚さんもの、皆無と
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