、されど最も憾むべきはお濠の中なるがあとなくなったことだ。
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 滝あみ



 那智、華厳、養老、不動なんど、銀河倒懸三千尺の雄大なるは見難きも、水に親しむ夏には江戸ッ児も滝あみを思立つが多く、近年は専ら権現の滝、不動の滝なぞ足場がよいからか王子などに行く人多く、大方は朝顔を入谷に見て不忍の蓮をも賞し、忍川、あげだしさては鳥又、笹の雪と思い思いの家に朝茶の子すまし、早ければ道灌山を飛鳥山に出て、到る処に緑蔭の清風を貪り、さていい加減汗になって滝浴みという順序だが、横着には汽車を利して王子までを一[#(ト)]飛び、滝の川に臨める水亭に帯くつろげて汗を入れ、枝豆、衣かつぎの茹加減なを摘み塩つけて頬張った上、さてそろそろ滝壺へおり立って九夏の炎塵を忘るる。
 この滝、王子なるも何処なるも女滝男滝にわかれて、殊に当節は葭簀《よしず》の囲いさえ結われたが、江戸ッ児は男も女も噪《さわ》ぐのが面白く、葭簀を境いにキャッキャッとの騒ぎ、街衢をはなれたこの小|仙寰《せんかん》には遠慮も会釈もあったものではない。
 滝の名所はここ王子なるを初めに、角筈《つのはず》の十二社《じゅうにそう》、目黒の不動などを主とし、遠くは八王子、青梅などにその大なるものをたずね得べし。
 しかし江戸ッ児にはただその雄大なる姿を賞するのみでは承知が出来ず、どうしても素裸の褌一つになり、飛下する水に五体を打たせねばジッとしていられぬ性とて、高雄山なるは浴みもされるが、金刀比羅の滝、独鈷《どっこ》の滝など、見るが主なるはさばかりに好んで足を向けない。――一つは倶利迦羅紋紋の腕から背を、これ見よがしの罪のない誇りを抱く手あいもあるからであろう。
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 虫と河鹿



 松虫、鈴虫、轡虫《クツワムシ》、さては草雲雀、螽斯《キリギリス》なんど、いずれ野に聞くべきものを美しき籠にして見る都びとの風流は、今も昔に変らぬが、ただこの虫というもの、今は野生のを捕え来て商うのではなくて、大方は人工孵化。走りを好む手合いをお客様にしての商売は、こうした生きものをも造化の下請負せねば間に合わず、一年三百六十五日、己が住居の床下にそれはそれはごたいそうな虫の巣を拵えこんで、無慈悲の冬を囲いもしてやれば、かれらの子孫の蕃殖をもお手伝いする。虫どもに言わしたら、これが吾々の造物主とあがめ奉るかも知れない。
 さあれ人間が手づくりの虫は命も短く、地体が達者でもないために、うかと水でもかけてやろうものなら、即得往生、新しくやった胡瓜の半ばをもつくさで諸足縮めて固くなっておるに、吾れ人ともに無常を感ぜざるを得ぬ。
 かくて野生の虫、近郊に鳴きすだく頃には、人工の虫は元の古巣に、蟄竜の嘆を恣にする。さても有為転変の世のこれも是非なき一つであろうか。
 有為転変といえば、今は野に鳴く虫も態々ゆいて聞く人尠く、したがって虫択みなどいう娯しみは、いつか廃れ果てて、江戸ッ児にも風雅心は薄らぎ、縁日の露店に屑虫を売りつけられてただ安かったのを喜ぶ、実は少々情なくてならぬ。
 されば詩経の草木、万葉の草木なんど、菊塢翁の昔から凝りやをうりものの、向島百花園、三、五年この方、吉例を再興して虫放ちの催しをなし、残された江戸趣味の普及をとて同好を語らい招く。当夜に来合したほどの人に話せねえ手合は一人もないが、殊に嬉しいは同趣味の人々聞き伝え、語りあわして、それからそれへと来衆の数をますことで、さてこうなって見ると案外に話せる御仁もまだ大分世にはござると、園の老主人ではないが、大いに人意を強うした。
 河鹿は縁日もの、振り売りの手合いからは決して買わぬもの、これも三歳以下なはまだ籠なれずして鳴きも歌わず、どうかすると姿ばかりがよく似た蛙めを掴まされることさえある。
 飼うには素人にも骨が折れず、生き虫と時々の新しき水を怠らねば誰れにもそそうはなく、鳴きも然るべき鳥屋が売ったのなら請合いである。
 行いて聞くには汐入の渡しを綾瀬の流れに入って、溯ることしばし、そこに月影の砕くる瀬ありて、彼の愛すべき声を賞すべし。半宵船をもやいて、ここらあたりに月と河鹿を賞するの風雅人、果して都に幾たりを算え得ることであろうか。
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 走り鮎



 鮎は当歳の走りを別して賞美する事、必ずしも江戸ッ児ならずともだが、今では蕃殖を保護するというので、七月十五日までは禁漁とあり、旁名物の多摩川ものはそれ以後でなくば魚河岸にも現れず、二子に赴いても網一つ打つことならねば、江戸ッ児には酷い辛抱ながら、解禁の日よりは河岸にも籠をつむことあり、それまで幅を利かしていた秩父もの、国府津ものなど、漸く片隅に退けられて、これより一しきり、鮎は多摩川に限らるるもおかしい。
 凡そ鮎の真味は、その肉よりも骨にあるので、噛み
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