蜊のたぐいである。
 鰻は何よりも蒲焼を最とし、重箱、神田川、竹葉、丹波屋、大和田、伊豆屋、奴なぞ、それぞれの老舗を看板に江戸前を鼻にかけてはおるが、今でも真に旨いのを喰わせる店、山谷の重箱を第一に算うべく、火加減、蒸しのかけ具合、たれ醤油の塩梅《あんばい》など、ここのを口にしては他に足を向くる気にはなれない。
 勿論、従来の江戸前といった鰻、今も大川尻から品川の海にかけて獲れはするが、紡績や、川蒸汽船の石炭殻を流しこむので、肉の味ゲッソリおちて、食通の口に適せず、妻沼、手賀沼あたりからのを随一とするに至っては、火加減、蒸し加減が何よりで、搗《かて》てたれ醤油の味いも元より大切だ。
 彼のチリリと皮の縮れて、焼加減な大串中串を箸にした気持ち、早くも舌めが味いたがって、無遠慮に催促するもおかしい。
 蜆はこれも大川のを第一とするが、これとて石炭殻に味いをそがれ、今は処を択らねば上物は得るに難い。
 この貝は味噌汁の一種に限ったもので、白味噌を赤味噌に混えたを最上としてある。
 ついでに泥鰌も味噌汁に限ることを言っておこう、駒形の名物泥鰌に浮れ込み、いやに江戸がって骨抜きせぬのをとりよせ、丸煮の鍋に白い腹を出してるのを見て、俄《にわか》にげんなりしてしまい、嫌々むしって喰べる連中、近来は大分多くなったと、内々嗤ってる手あいがある。
 浅蜊は澄まし汁最もよく、豆腐にあしらったも悪くはない。されど宵越しのを勿体ながって避病院へ送られぬが肝要。まさか江戸ッ児はそんな意地汚しもしまいとは思うが、すべてはさッぱりと……オオさッぱりといえば、これの塩むしもいいものだ。
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 丑べに



 紅というもの、若い女の唇に少しばかりものしたが、かえって愛でたく、上瞼に薄っすら刷いたも風情のあるものだ。
 この紅、土用と寒の丑の日に刷かすをよしとして、当日は小間物やが店先に「本日うし」と筆太に記されたビラの掲げらるるを例とするが、寒中の丑の日に刷いたは、切り傷、皮膚のあれによろしく、土用なるは毒けし、虫よけに用いる。
 されば創傷唇のあれに寒べに附けたるを見る如く、夏の手料理にこの色ざしを好み、手足の爪に丑べにをさすこと、今も年よりの心する家の子供には、屡次《しばしば》これを見ることである。
 丑べにで思出したは、この頃でも時々、この日の紅買いに土製木彫りなんどの臥牛を景物とする店、昔のように残れることで、これも江戸趣味の、なお滅びざる俤の一つとして、吾儕はまたなく愛するものである。
 京の女は厚化粧、白粉を頸筋にまで用いて、べには唇にばかりではなく、目じり目がしら、引眉にもこれを加うとぞいうが、江戸ッ児は女でも瀟洒たるもの、好んで多摩川の水にみがき上げた素顔素肌を誇り、強ては白粉を用いず、ただ紅のみは下唇にチョと目立たぬくらい、それも態とらしきは吾から避けて用いぬようにしている。
 女の口紅はこうしてこそ趣も深く、なかなかに捨てがたく思わるるのを、徒にコッテリと唇いっぱいにつけて、折角の愛らしい口元を、子鬼の笑ったようにしてしまうもの多きは、寧ろ天性の麗質を損ずるもの、吾儕が生粋の江戸ッ児には憚んながらそんな女は一人もいないはずだ。
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 朝顔と蓮



 松樹千年の緑を誇ろうよりも、槿花一日の栄えを本来の面目とする江戸ッ児には、旦々に花新たなる朝顔を愛し、兼ねては汚泥を出でて露の白玉を宿す蓮の清新を賞する、洵にあらそい難きことどもである。
 その朝顔、入谷なるを本場とし、丸新、入又、植惣なんど、黎明より客足しげく、昔ながらの朝顔人形、どこまでも江戸ッ児は芝居気があっておかしい。
 芝居気といえば、朝顔の夏を入谷なる何がしの寺で、態々かけだしをものしての伝道布教、麦湯のふるまいに浮き足になりながらでも聴聞してゆく人の多いは、これも一碗の恩恵に折からの渇を医し得た義理ゆえもあろうが、場所だけに何やらん面白い感じがする。
 さて朝顔は、ここを本場とはするものの、育ちは亀戸で、さるは恰も田舎人が漸く都会の生活になれて、やがては東京ッ児となりおおするにも似てはいまいか。亀戸の植木屋はとんだ九太夫役を承ったものだ。
 蓮は花の白きをこそ称すれ、彼の朝靄に包まれて姿朧なる折柄、東の空に旭の初光チラと見ゆるや否、ポッ! ポッ! と静かなる音して、今まで蕾なりし花の唇|頓《とみ》に微笑み、ある限りの人々ただ夢を辿るおもい、淡い自覚に吾がうつつなるを辛くも悟り得る際の心地、西の国々の詩人が悦ぶはこうした砌《みぎり》の感じでもあろうか。
 朝の不忍に池畔のそぞろ歩きすれば、この種の趣致は思うままに味われる。江戸ッ児は常にこの趣致を愛する、然りただそれこれを愛する、余には深い意味も何もあったものではない。
 蓮はなお芝公園にも浅草公園にもある
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