とってこの上もない僥倖なのである。
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 風鈴と釣忍



 夏の景趣を恣にして江戸ッ児の雅懐をやるもの風鈴と釣忍またその一つか。
 彼の、午後の日ざしやがての暑さを想わするほど、赤、青、黄、紫、白、いろいろに彩られた玻璃製の風鈴幾つとも数知れぬほど左右の荷につけて担い来る風鈴売りの巷を行くに、チリチリと折からの微風に涼しげな音して美しき玻璃と玻璃との触れあうを聞けば、誰も吾が家の軒端にとその一つを掲げて愛らしき夏の音楽に不断の耳を楽しまそうとは思い立つことどもだ。
 さるからにこの風鈴一つ値いを払うて軒端につるせば、また一つそこに欲しきもの出で来て、夕べの縁日に釣忍たずぬるはこれも江戸ッ児のお約束ごととでもいおうか。
 永き日の読書にも倦んじて、話すべき友も傍にはおらず、かかるとき肱を枕にコロリとなれば、軒の風鈴に緑を吹き来る風の音|喧《やかまし》からず、そのチリチリに誘われてツイ華胥《かしょ》の国に遊び去る、周荘が胡蝶の夢も殊の外に安らかで、醒めぎわの現なしにも愛らしき音は何の妨げともならぬぞ嬉しい。
 かくてぞ漸くに暮れ行く空の、コバルトの色|黯《なず》みて、やがて暗く、かは誰の人顔も定かならぬ折柄、椽近く座を占めて仰ぐ軒端に、さり気ない釣忍の振舞いもなかなかに悪からず、眺め深いものだ。
「なぜ風鈴の一つも下げないのだな」
 もしくは――
「ここの処へ忍でも釣るしたらなァ」
 これらの言葉が江戸ッ児によって繰返さるることは、強ち稀らしくないことで、かれらはお世辞でも、いきあたりばったりでもなく、そう感じてそういうのだ。
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 井戸がえ



 山の手の井戸は一体に底も深く、したがって湧出る水も清冽だ。さるをその井戸、水道という便利なものが出来て、次第に取こぼたれ、今はその数も尠うなったので、初夏の午前に、五、七人の井戸やして太やかな縄に纏わり、井に降り立った男の中からの合図につれ、滑車を辷《すべ》り来る縄を曳いて、井水をかえ出す様、漸くこれを見ること稀々にはなったが、かれらの懸け声とザァザッと覆さるる水の音を聞く砌《みぎり》は、ただ清々しく心楽しきものである。
「ほゥてよ※[#小書き片仮名ン、110−2]………ほゥ………」
 繰りかえさるるその懸け声の度々に、ザァザッという水音、かくて替えつくされた井戸には、盃に三杯の清酒を撒いて塩
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