マンティックである、人は彼に酔い、それに魅せられ、そしてまたここに興がるのである。
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 八百善料理



 某県選出衆議院議員何誰と恐ろしく厳めしい名刺を出して、新橋に指おりの大料理店に上り込み、お定りの半会席を一円にまけとけなぞと遠慮会釈ものう御意遊ばす代議士殿のござる世に、八百善料理の粋を紹介しても、真に首肯《うなず》きたもうお方の果して幾人を数え得ることやら、実は少々心細き限りではあるが、こうでもない、ああでもないの食道楽の末、いよいよという時が来たら山谷にここの板前を吟味したまえ。
 浅草詣での帰るさ、界隈の料理では腹の虫が承知せぬちょう食道楽の一人、さるは八百善にてと態々歩を抂《ま》げ、座敷へ通っての注文に「何かさっぱりしたもので茶漬を!」との申しつけ、やがて出されたは黒塗りの見事な膳部に誂えの品々、別に鉢植えの茄子に花鋏一挺が添えてある。
 食道楽近頃の希望を満足して先ず高麗焼の小皿に盛られた浸しものを弄味し、更には鋏して鉢植えの茄子をちぎり、大方はそれと察して一[#(ト)]口して見ると、案ずる如くに頃あいの漬き加減。さて食事をおえてこれで勘定をと十円紙幣一枚を投げ出すに、待てど暮らせど釣銭を持って来ず、如何な八百善でも浸しものに鉢植えの漬茄子で十円はとて、段々に糺して見ると、亭主自ら出て来て云々の説明、いわれを聞いては成程と大通も赤面して引きさがったとか。
「左様でございます、お高いか存じませんが手前どもでもムザとはお客様からお鳥目を頂戴は致しませぬ。実はさっぱりしたものでお茶づとの御意にございましたので、あれこれと吟味いたしまして、盆栽の蘭に持ちました花を浸しものに用いましたので……就きましては蘭の儀はお邪魔にございませねば万望お持ち帰りを……」
 亭主の言は実に如此《かくのごとき》であった。そして女中して持ち来らしめた一鉢には、如何にも五、七円はしようと思わるるほどの蘭一株、花の摘まれた痕もいと新しかった。
 そんじょそこらの通がりが江戸ッ児を真似て、聞いた風なことを召さると得てこうした失敗は免かれぬ。
 八百善の料理に一汁二菜の真価を解するに至らば、江戸ッ児の気分――その趣味をも了解するはいと容易なこと、かくてぞ吾儕は残されたる江戸趣味を人々と共に保護し、やがては再興をも図ろうと思うもの、さらば八百善料理の今も存するは、江戸ッ児に
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