いは仙台鮪が河岸にのぼる日もあって、それ以来初松魚の有難味頓と下り果てた為体《ていたらく》、竜も雲を得ざれば天に及ばず、時なればこれとても是非ないことかな。
 しかはあれども、松魚は元より男の魚、ピンと跳ねた姿にすッきりした縞目の着もの、美しきは上べばかりでなく、おろした身のさらりと綺麗で、盃の口に決してしつこからず、箸にする一片の肉にも、死して死せざる筋の動き、身は寸断に切り刻まれても、魂は遂に滅びざる江戸ッ児の性根をそのままなる、ここに財物を抛ってもの値打ちはあるのだ。
 仙台鮪は黒味なものと心得、肉さえ赤ければ近海ものだと喜んでいる御仁にはお解りになるまいが、窮しては鱒のおろしたをも身代りにして鮪だと胡麻化す鮨屋が、強ち屋台店ばかりでなくなってきた世に、初松魚の賞美さるるも、既にここらが最期だろうとの心配は、先ずは取越し苦労で、江戸趣味の残る限り、江戸ッ児の子孫の続く間は、吾儕より初松魚を除くことはあるまいと信ずる。吾儕より初松魚を忘れ去ることはなかろうと言いきれる。
 初松魚! 初松魚! 汝の名は常に新しい誇りと力を吾儕にもたらす。蓋し汝は永遠に江戸ッ児のシンボルである、然り、江戸ッ児のシンボルである。
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 釣りと網



 寒鮒に始まって鯊釣り、鱚釣り、鯔《ぼら》、海津など、釣りと網とは花に次いでの江戸ッ児の遊楽だ。
 鮒は本所深川の池、堀、別しては木場辺の浮き材木の上から釣るのなぞが獲物もよく、釣堀は先ずその次である。但し堀江、猫実辺への遠出をすればこの上はないが、さるは充分に閑暇を得ての上のことだ。
 鯊釣りは彼岸を待っての垂綸《たれいと》で、東京湾の鱚釣りは脚立に限る。鯔は釣りでも網でも面白く、海津は釣るに最もよい。
 海津は「ケエヅ」とよんでいただかねば江戸ッ児には承知が出来ず、何んだ黒鯛の子かァ……などは少々お話にならぬ筋だ。
 凡そ釣りというもの、綸《いと》を垂れて魚のかかるを待っているだけのことで、岡目には如何にも馬鹿らしいことだろうが、本人に至ってはなかなか以て懸命の苦心、浮標《うき》をあてにするようだと誰しも言われたくないので、その微動だも見のがすまいとの注意は、呆然たるようでも精神の充実していること驚くばかりだ。
 されば釣り好きになると、目のまわるほどな忙しい中でも、他の綸を垂るるを息を殺して凝視し、自分までが力瘤を入
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