《たより》ない呻声《うめきごえ》が乾付《からびつ》いた唇を漏れたばかり。
「やッ! こりゃ活《い》きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、早う来い、イワーノフが活きとる。軍医殿を軍医殿を!」
 瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが口中《こうちゅう》へ注入《そそぎい》れられたようであったが、それぎりでまた空《くう》。
 担架は調子好く揺れて行く。それがまた寝《ね》せ付《つけ》られるようで快い。今眼が覚めたかと思うと、また生体《しょうたい》を失う。繃帯をしてから傷の痛《いたみ》も止んで、何とも云えぬ愉快《こころよき》に節々も緩《ゆる》むよう。
「止まれ、卸《おろ》せ! 看護手交代! 用意! 担《にな》え!」
 号令を掛けたのは我衛生隊附のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る背高《のッぽう》で、大の男四人の肩に担《かつ》がれて行くのであるが、其方へ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い疎髯《まばらひげ》、それから漸く頭が見えるのだ。
「看護長殿!」
 と小声に云うと、
「何《なン》か?」
 と少し屈懸《こごみかか》るようにする。
「軍医殿は何と云われました? 到底助かりますまい?」
「何を云う? そげな事あッて好《よか》もんか! 骨に故障が有るちゅうじゃなし、請合うて助かる。貴様は仕合《しあわせ》ぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。如何《どう》して此三昼夜ばッか活《いき》ちょったか? 何を食うちょったか?」
「何も食いません。」
「水は飲まんじゃったか?」
「敵の吸筒《すいづつ》を……看護長殿、今は談話《はなし》が出来ません。も少し後で……」
「そうじゃろうそうじゃろう寝ろ寝ろ。」
 また夢に入《い》って生体《しょうたい》なし。
 眼が覚めてみると、此処は師団の仮病舎。枕頭《まくらもと》には軍医や看護婦が居て、其外|彼得堡《ペテルブルグ》で有名な某《ぼう》国手《こくしゅ》がおれの傷《て》を負った足の上に屈懸《こごみかか》っているソノ馴染《なじみ》の顔も見える。国手は手を血塗《ちみどろ》にして脚《あし》の処で暫く何かやッていたが、頓《やが》て此方《こちら》を向いて、
「君は命拾《いのちびろい》をしたぞ! もう大丈夫。脚《あし》を一本お貰い申したがね、何の、君、此様《こん》な脚《あし》の一本|位《ぐらい》、何でもないさねえ。君もう口が利《き》けるかい?」
 もう利《き》ける。そこで一伍一什《いちぶしじゅう》の話をした。



底本:「平凡 私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社
   1997(平成9)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「二葉亭四迷全集」筑摩書房
   1984(昭和59)年11月〜1991(平成3)年11月
入力:長住由生
校正::はやしだかずこ
2000年11月8日公開
2005年12月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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