慕う者は義の国を望むのである、而して斯かる国の斯世《このよ》に於て無きことは言わずして明かである、義の国は義の君が再び世に[#「義の国は義の君が再び世に」に傍点]臨《きた》り給う時に現わる[#「り給う時に現わる」に傍点]、「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望み待《まて》り義その中に在り[#「義その中に在り」に傍点]」とある(彼得《ペテロ》後書三章十三節)、而して斯かる新天地の現わるる時に、義を慕う者の饑渇は充分に癒さるべしとのことである。
 矜恤《あわれみ》ある者は福《さいわい》なり、其故如何? 其人は矜恤《あわれみ》を得べければ也、何時《いつ》? 神イエスキリストをもて人の隠微《かくれ》たることを鞫《さば》き給わん日に於てである、其日に於て我等は人を議するが如くに議せられ、人を量るが如くに量らるるのである、其日に於て矜恤《あわれみ》ある者は矜恤を以て審判《さば》かれ、残酷無慈悲なる者は容赦なく審判かるるのである、「我等に負債《おいめ》ある者を我等が免《ゆる》す如く我等の負債《おいめ》を免し給え」、恐るべき審判《さばき》の日に於て矜恤《あわれみ》ある者は矜恤を以て鞫《さば》かるべしとの事である。
 心の清き者は福《さいわい》なり、何故なればと云えば其人は神を見ることを得べければなりとある、何処でかと云うに、勿論|現世《このよ》ではない、「我等今(現世に於て)鏡をもて見る如く昏然《おぼろ》なり、然れど彼の時(キリストの国の顕《あら》われん時)には面《かお》を対《あわ》せて相見ん、我れ今知ること全からず、然れど彼の時には我れ知らるる如く我れ知らん」とパウロは曰うた(哥林多《コリント》前書十三の十二)、清き人は其の時に神を見ることが出来るのである、多分万物の造主《つくりぬし》なる霊の神を見るのではあるまい、其の栄の光輝《かがやき》その質の真像《かた》なる人なるキリストイエスを見るのであろう、而して彼を見る者は聖父《ちち》を見るのであれば、心の清き者(彼に心を清められし者)は天に挙げられしが如くに再《また》地に臨《きた》り給う聖子を見て聖父を拝し奉るのであろう(行伝一章十一節)。
 和平《やわらぎ》を求むる者は福《さいわい》なり、其故如何となれば其人は神の子と称えらるべければ也、「神の子と称へらるる」とは神の子たる特権に与かる事である、「其の名を信ぜし者には権《ち
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