王が云ふ。吐息を洩しながら云ふのである。『それでも夜中《よぢう》、わたくしは怖の嬉しいをののきが体に通ふのを待つて居るのでございます、おそろしさに髪が逆立つのを待つてゐるのでございます。「こはがる」と云ふ事はどんなに嬉しい事でございませう。』
女王は両手を黒い王の頸にからんで、子供のせがむ様な声でかう云つた。
『夜がまゐります。仮装をして御一緒に市を歩きませう。おいやでございますか。』
王は同意した。女王はすぐに窓に走りよつて格子の間から下の十字街路を見下した。
『乞食が一人、王宮の壁によりかかつて横になつて居ります。あの乞食に陛下のお召しをおつかはしになつて、其代に駱駝毛の頭巾とあの男のしめてゐる荅布《たふ》の帯とをお貰ひ遊ばせ。早くなさいまし。わたくしは自分で支度を致しますから。』
女王は嬉しさうに手を拍ちながら、饗宴の間を走り出た。バルタザアルは金で繍をしたリンネルの下衣を脱いで、乞食の衣を身に纏つた。どう見てもほん物の奴隷である。女王も亦たすぐに縫目のない青い衣をきて出て来た。
畑で働く女たちが着る着物である。
『さあ、まゐりませう。』
かう云つて、女王は狭い宮廊を、野へ出る小さな戸口の方へバルタザアルをひつぱつて行つた。
二
夜は暗かつた。さうして夜の暗につつまれてバルキスが大へん小さく見えた。
女王はバルタザアルをある居酒屋へ伴れて行つた。宿無しや立ん坊が私窩子《しくわし》をひきずりこむ処である。二人は食卓について、いやな臭のするランプの光で不潔な空気の中に浮き出してゐる人の皮をかぶつた汚い獣どもを見た。女一人、酒一杯の争から拳骨とナイフとで、噛合ひが始まる。外の奴は外の奴で、鼾をかきながら、握り拳を拵へて食卓の下に寝そべつてゐる。居酒屋の亭主は又ズツクを重ねた上に横になつて眼を光らせながら、いがみあふ酔たんぼを見張つてゐるのである。バルキスは塩魚が天井の桷《たるき》からぶら下つてゐるのを見て、連れにかう云つた。
『わたくしは撞《つ》き葱をつけてあのおさかなを一つたべて見たうございますの。』
バルタザアルがいひつけた。けれども食べて仕舞つて見ると、王は金を持つて来るのを忘れたのに気がついた。尤もこれは格別苦にならない。勘定を払はず二人で抜け出すのも訳無しだと思つたからである。処が其段になると亭主が『折助め、ひきずりめ』と
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