仕事が與へられた。それは煉瓦工場の土擔ぎだつた。
「今日はちやあや[#「ちやあや」に傍点](父のこと)の辨當を持つてゆくの私だよ。」
「うゝん今日は俺だ。」
「咋日お前が持つて行つたんぢやないか」
「嘘つけ、おら[#「おら」に傍点]はたゞお前に隨いていつたんだ、今日こさ、俺一人でいぐ!」
 子供は大臣のオフイスにでも行つて見るやうに、父の働いてる工場にいつて見たがつた。
 皆で祖母の作つたお辨當を奪ひあつた後、結局皆でぞろぞろと長い松原を歩いていつた。
 野の中に蛇の目傘を擴げたやうな穹窿形の屋根が三つ、青麥の波の上に泛んでゐる。
 そこは、下野煉瓦製造工場。
 子供等は門の中へ入つてお辨當を置いてくると、急いで出て來て川向ふへ廻つた。
 圓い工場の丘を半分抱いて流れてる川の水は、土を搬んでくる小舟の爲に攪亂されて濁つてゐた。
 開け放たれた窓の奧に、高い天井から斜めに廻轉してる調帶《ベルト》の一部が、長蛇のやうに見えてゐた。そこから間斷なく切り出される大きい羊羮のやうな長方形の土塊は屋外に搬び出されると、手拭を冠つた女達の手に、一箇一箇と莚の上に並べられた。
 甘さうな水分を含んだ、しつとりとしたお菓子が、規帳面に並んだ上を、白い雲の集團が煤色の影を落しながら飛んでゆく。
 炎天下に勞作する男女の群を、子供等は何にも知らずに繪のやうに眺めた。その風景は長閑な異國的な情緒さへ私達に傳へた。
 子供等は土擔ぎの眞ッ黒な人夫の群の中から若い父親を見出すと、小鳥のやうに口をあいて聲を揃えて
「お父つつあん――」
 と一齊に呼ぶのだ。二三度呼ぶと、父は對岸の子供の方をチラッと振り向いて、愛情の籠つたむづがゆいやうな微笑を傾けた。
 百姓から行商人へ、それから勞働者へと境遇の變つていつた父の、工場を背景にして働く姿は、どんなに輝やかしく男性的に子供等の瞳へ映つたろう。だが、その古い印袢天の下に穿いた、汗と垢に汚れた白木綿のズボンが、べたべたと父の下半身に絡みついて、それがおそろしく父の足許を疲勞してゐるやうに見せた。
 私は貧しさに沒してゐる間は、自分の貧しさを知らなかつたが、學齡までといふ生家と里親との約束の期限が來て、とうとう私はこの若い貧しい、然し温い父母の懷中から切斷されてしまつた。それは全く血の滲むやうな苦悶だつた。
「×さん、もうあの貧乏家へはいかないがいゝよ、虱が泳いでゐるよ。」
 誰も口を揃えて貧しい父母を侮蔑した。
 さういはれて見ると實際、私の愛する弟妹達の髮の毛には、粉雪のやうに白い細かい虱が根深く喰ひこんでゐるのが眼に見える。
「虱なんか、たけてくると傍《はた》迷惑だよ、第一着物が臭くなるから、あんな家へいかない方がいゝよ」
「お前が、彼邊の貧乏屋で、かけたお碗でけんちん汁か何か食べてた姿[#底本では「婆」と誤記]を見たものがあるか? もしあればその人はそれつきりお前に愛想を盡かしてるぜ、まるで乞食の子だ、俺なんか沁々[#底本では「泌々」と誤記]お前が厭んなつちやつたぜ‥‥‥」
「夕方になると彼處の乞食婆がね、×ちやんに逢ひたくつて、×ちやんの家の前を幾度も往き來してんだよ、まるで偸人《ぬすつと》みたいな婆あだつて、ほんとかい?」
 皆の揶揄が小さい私の心を寸斷した。
 夕方私が家の窓から往來を覗くと、祖母が向ふの油倉の蔭にかくれて手招ぎをしてゐた。
 私は彼方を見、此方を見ながら、祖母の傍へ駈け寄つていつた。
 始終蜆の貝のやうに爛れてゐる眼のそばへ、くつつけるやうに茶の毛糸の巾着を持つていつて、その中から銅貨を二つ三つつまみ出して私の手のひらに載せた。
 祖母は祖母で村の人の使ひや洗濯をして、僅かな金を得てゐるのだつた。
 それから祖母は、毎日毎日來て、お小遣を置いていつた。私はその祖母の血滴のやうな錢で、家から禁じられてる駄菓子の買啖ひをして、小さい慾望を滿足さした。
 毎晩十二時になると、私は急に夜具を蹴上げて飛び起きた。
「わあつ!」といふ叫びを擧げながら、あらゆる障害物を飛び踰えて、往來へと突進した。危ぶない! 危ぶない!家の者や近所の者は、何處まで駈け出してゆくか解らない私を抱き止めて、また寢床の中へ連れ戻した。私は何にも意識しないで、その儘靜かな眠りを續けるのだつた。
 私はいつも覺めてゐる時も寢てゐる時も、乳母や乳弟妹《ちきやうだい》に呼びかけられてゐるやうで少しもおちつかなかつた。始めは僅かな養育料の爲に繋がれた私達だつたが、とうとう切り放せない一つのものになつてしまつたのだつた。
 そして彼の家の赤貧は、少さい私の重荷になつて、一層私を貧に對して神經質にした。

 何時からともなく祖母は姿を見せなくなつた。病氣でもしてゐるのではないかと思つた。すると製糸工場へ行つてゐる母が、祖母も夫も子供も
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