彼女こゝに眠る
若杉鳥子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)荊棘《いばら》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|緒《しよ》に
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さむ/″\と光つてゐた。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)髭《ひげ》[#底本では「髮」と誤記]さへ
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その夜《よ》の月《つき》は、紺碧《こんぺき》の空《そら》の幕《まく》からくり拔《ぬ》いたやうに鮮《あざ》やかだつた。
夜露《よつゆ》に濡《ぬ》れた草《くさ》が、地上《ちじやう》に盛《も》り溢《あふ》れさうな勢《いきほ》ひで、野《の》を埋《うづ》めてゐた。
『お歸《かへ》んなさい、歸《かへ》つて下《くだ》さい。』
『いえ。私《わたし》はもう歸《かへ》らないつもりです。』
『どこまでひとを困《こま》らせようといふんです。あなただつて子供《こども》ぢやああるまいし。』
草《くさ》の中《なか》に半身《はんしん》を沒《ぼつ》して、二人《ふたり》はいひ爭《あらそ》つてゐた。男《をとこ》は激《はげ》しく何《なに》かいひながら、搖《ゆ》すぶるやうに女《をんな》の肩《かた》を幾度《いくど》も小突《こづ》いた。
『いえ、私《わたし》はあなたが何《なん》と仰有《おつしや》つても、あなたに隨《つ》いてゆくのです。それより他《ほか》に私《わたし》の行《ゆ》くみちはないんです。』
女《をんな》は嶮《けは》しい男《をとこ》の眼《め》を眼鏡《めがね》の中《なか》に見《み》つめながらいふのだつた。
『馬鹿《ばか》なツ、隨《つ》いてゆくつたつて、何處《どこ》へ行《ゆ》くといふんです。』
『何處《どこ》までゝも――けれど、それがもしあなたの御迷惑《ごめいわく》になるとでも仰有《おつしや》るなら、私《わたし》は此處《ここ》でお訣《わか》れします。でも、家《うち》へはもう歸《かへ》らない覺悟《かくご》です。』
女《をんな》は少《すこ》し冷《ひや》やかにいひ放《はな》つと、蒼《あを》ざめて俯向《うつむ》いた。二人《ふたり》の間《あひだ》に、暫《しばら》く沈默《ちんもく》が續《つゞ》いた。
默《だま》つて女《をんな》を凝視《ぎようし》してゐた男《をとこ》は、前《まへ》とは全然《ぜんぜん》異《ちが》つた柔《やさ》しさでいつた。
『ね、解《わか》つて下《くだ》さい。僕《ぼく》は塒《ねぐら》さへ持《も》つてゐない、浮浪人《ふらうにん》に等《ひと》しい男《をとこ》なんですよ。』
『知《し》つてます、そんなこと。』
『それにです、明日《あす》どうなるかも解《わか》らない體《からだ》なんです。』
『みんな、よく私《わたし》は解《わか》つてゐるんです。』
『今夜《こんや》あなたのお父《とう》さんが、僕《ぼく》を罵倒《ばたう》して追《お》ひ出《だ》したのも、親《おや》として無理《むり》なことではありません。全《まつた》く僕《ぼく》といふ男《をとこ》は、あなたを何《なに》ひとつ幸福《かうふく》にしてあげる事《こと》なんかできない人間《にんげん》なんですから……』
『ぢやあ、あなたは私《わたし》を輕蔑《けいべつ》してらつしやるんだ。』
『なにいつてるんですツ』
『だつてあなたは、私《わたし》がやつぱし、父《ちゝ》のいふ意味《いみ》の幸福《かうふく》な結婚《けつこん》を求《もと》め、さうしてまた、それに滿足《まんぞく》して生《い》きてられる女《をんな》だとしか思《おも》つてない……』
『さうぢやない、さうぢやないが……』
『いえ、あなたは、私《わたし》といふ女《をんな》が、あなたの足手纒《あしてまと》ひになる厄介《やくかい》な女《をんな》だと思《おも》つて、その癖《くせ》に今《いま》まで……』
『昂奮《こうふん》しないでお聽《き》きなさいツ。ではこれから自分達《じぶんたち》の行《ゆ》く道《みち》が、どんなに嶮《けは》しい、文字《もじ》通《どほ》りの荊棘《いばら》の道《みち》だつてことが、生々《なま/\》しい現實《げんじつ》として、お孃《ぢやう》さん、ほんとにあなたにわかつてゐるんですか……』
彼等《かれら》の爭《あらそ》ひ[#底本ではルビは「あら」と誤記]は、際限《はてし》もなく續《つゞ》いた。さうして夜《よ》が更《ふ》けて行《い》つた。
……だがその夜《よ》始《はじ》めて、彼女《かのぢよ》は戀人《こひびと》の激《はげ》しい熱情《ねつじやう》に身《み》を投《とう》じたのだつた。
彼女《かのぢよ》が、戀人《こひびと》の片山《かたやま》と一|緒《しよ》に生活《せいくわつ》したのは、僅《わづか》かに三ヶ|月《げつ》ばかりだつた。彼《かれ》がその屬《ぞく》してゐる黨《たう》の指令《しれい》のもとに、ある地方《ちはう》へ派遣《はけん》された後《のち》、彼等《かれら》は滅多《めつた》に逢《あ》ふ機會《きくわい》もなかつた。
その間《あひだ》彼女《かのぢよ》は、無産者《むさんしや》××同盟《どうめい》の支部《しぶ》で働《はたら》く傍《かたはら》、あるデパート專屬《せんぞく》の刺繍《ししう》工場《こうぢやう》に通《かよ》つて生活《せいくわつ》を支《さゝ》へた。そのうち、三・一五|事件《じけん》として有名《いうめい》な、日本《にほん》×××員《ゐん》の全國的《ぜんこくてき》の大檢擧《だいけんきよ》が行《おこな》はれた。それ以來《いらい》、片山《かたやま》の消息《せうそく》は知《し》れなくなつた。
彼女《かのぢよ》は、片山《かたやま》一人《ひとり》を得《う》る爲《ため》には、過去《くわこ》の一|切《さい》を棄《す》てた。肉親《にくしん》とも絶《た》たなければならなかつた。もつとも、母親《はゝおや》は實母《じつぼ》ではなかつた。
唯《たゞ》一人《ひとり》、頼《たの》みとする片山《かたやま》に訣《わか》れた彼女《かのぢよ》は、全《まつた》く淋《さび》しい身《み》の上《うへ》だつた。彼女《かのぢよ》は、片山《かたやま》の同志《どうし》のK氏《し》の家《うち》に身《み》を寄《よ》せて、彼《かれ》の居所《ゐどころ》を搜《さが》してゐたが、その彼《かれ》が、I刑務所《けいむしよ》の未決監《みけつかん》にゐると判《わか》つたのは、行方不明《ゆくへふめい》になつてから、半年《はんとし》もの後《のち》だつた。
それから彼女《かのぢよ》は毎晩《まいばん》、惡夢《あくむ》を見《み》た。片山《かたやま》が後手《うしろで》に縛《しば》り上《あ》げられて上《うへ》から吊《つ》るされてゐる、拷問《がうもん》の夢《ゆめ》である。[#底本では、この行頭の1字下げなし]
ある時《とき》は、隣室《りんしつ》に臥《ね》てゐるKの夫人《ふじん》に搖《ゆす》り起《おこ》されて眼《め》を覺《さ》ましたが、彼女《かのぢよ》にはそれが單《たん》に夢《ゆめ》とばかり、打《う》ち消《け》すことができなかつた。何故《なぜ》なら、その頃《ころ》、さういふ野蠻《やばん》な戰慄《せんりつ》すべき噂《うはさ》が、世間《せけん》に喧《やかま》しく傳《つた》はつてゐたからだ。
彼女《かのぢよ》は毎晩《まいばん》ぐつしよりと、寢汗《ねあせ》をかいて眼《め》をさました。寢卷《ねまき》は濡《ぬ》れ紙《がみ》のやうに膚《はだ》にへばりついてゐた。
その日《ひ》も、朝《あさ》早《はや》く彼女《かのぢよ》は起《お》き上《あが》らうとしたが、自分《じぶん》にどう鞭《むち》うつて見《み》ても、全身《ぜんしん》のひだるさ[#底本ママ]には勝《か》てなかつた。立《た》ち上《あが》ると激《はげ》しい眩暈《めまひ》がした。周圍《しうゐ》がシーンとして物音《ものおと》がきこえなくなつた。體《からだ》はエレベーターのやうに、地下《ちか》へ地下《ちか》へと降下《かうか》してゆくやうな氣持《きもち》だつた。そして遂《つひ》に彼女《かのぢよ》は意識《いしき》を失《うしな》つて了《しま》つた。
間《ま》もなく、K夫人《ふじん》は間《あひだ》の襖《うすま》[#ルビは底本ママ]を開《あ》けて吃驚《びつくり》した。瞬間《しゆんかん》、自殺《じさつ》かと狼狽《らうばい》した程《ほど》、彼女《かのぢよ》は多量《たりやう》の咯血《かくけつ》の中《なか》にのめつてゐた。
然《しか》し、夫人《ふじん》は氣《き》を鎭《しづ》めて、近《ちか》くにゐる同志《どうし》の婦人達《ふじんたち》を招《よ》び集《あつ》めた。近所《きんじよ》から醫師《いし》も來《き》て、兎《と》も角《かく》應急手當《おふきふてあて》が施《ほどこ》された。
病氣《びやうき》は急激性肺勞《ギヤロツピングコンザンプシヨン》と診斷《しんだん》された。
然《しか》しその時《とき》の周圍《しうゐ》の事情《じじやう》は、病人《びやうにん》をK氏《し》の家《うち》に臥《ね》かして置《お》く事《こと》を許《ゆる》さないので、直《す》ぐに何處《どこ》へか入院《にふゐん》させなければならなかつた。
だが、入院《にふゐん》するとしても、誰一人《たれひとり》入院料《にふゐんれう》などを持合《もちあは》してゐる筈《はず》がないので、施療《せれう》患者《くわんじや》を扱《あつか》ふ病院《びやうゐん》へ入《い》れるより仕方《しかた》がなかつた。處《ところ》で一|番《ばん》先《さき》に、市《し》の結核《けつかく》療養所《れうやうじよ》へ交渉《かうせふ》して見《み》たが、寄留屆《きりうとゞけ》がしてないので駄目《だめ》だつた。そのうちにも、病人《びやうにん》の容態《ようたい》は、刻々《こく/\》險惡《けんあく》になつてゆくので、たうとう、そこから餘《あま》り遠《とほ》くない、府下《ふか》××村《むら》のH病院《びやうゐん》へ入院《にふゐん》させるより仕方《しかた》がなくなつた。それはキリスト教《けう》の教會《けうくわい》の附屬《ふぞく》病院《びやうゐん》なので、その事《こと》に就《つ》いては、大分《だいぶ》異議《いぎ》を持出《もちだ》した者《もの》もあつたが、この場合《ばあひ》一|刻《こく》も、病人《びやうにん》を見過《みすご》して置《お》く事《こと》はできなかつた。さうして彼女《かのぢよ》は何《なに》も知《し》らずに、婦人達《ふじんたち》に見守《みまも》られながら、靜《しづ》かに寢臺車《しんだいしや》で搬《はこ》ばれた。
冷氣《れいき》は酢《す》のやうに彼女《かのぢよ》の體《からだ》を浸《ひた》してゐた。
硝子《ガラス》戸《ど》の外《そと》には秋風《あきかぜ》が吹《ふ》いて、木《こ》の葉《は》が水底《みなそこ》の魚《さかな》のやうに、さむ/″\と光《ひか》つてゐた。
此處《ここ》はどこなのかしら――彼女《かのぢよ》は起《お》き上《あが》らうと意識《いしき》の中《なか》では藻掻《もが》いたが、體《からだ》は自由《じいう》にならなかつた。
西《にし》の空《そら》はいま、血《ち》みどろな沼《ぬま》のやうに、まつ紅《か》な夕《ゆふ》やけに爛《たゞ》れてゐた。K夫人《ふじん》は立《た》つて西窓《にしまど》のカーテンを引《ひ》いた。
病人《びやうにん》は不安《ふあん》な眼《め》を室内《しつない》に漂《たゞよ》はしてゐたが、何《なに》か物《もの》をいひたさうに、K夫人《ふじん》の動《うご》く方《はう》を眼《め》で追《お》つてゐた。
『あなたはいま重態《ぢうたい》なんですから、お氣《き》をおちつけて、靜《しづ》かにしてゐなければいけませんのよ、此處《ここ》? 此處《ここ》ですか……』
K夫人《ふじん》はいひ澁《しぶ》つたが、氣《き》の毒《どく》さうに病人《びやうにん》を見《み》ていふのだつた。
『此處《ここ》は、御存《ごぞん》じでせう、ほら××村《むら》のH病院《びやうゐん》ですのよ。それは宗教《しうけう》の病院《びやうゐん》になんか、あなたをお入《い》れしたくなかつたんですけれど、差《さ》し迫《せま》つた事《
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