浅間山麓
若杉鳥子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)木霊《こだま》が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「てがら」に傍点]
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落葉松の暗い林の奥で、休みなくかっこうが鳴いている。単調な人なつっこいその木霊《こだま》が、また向こうの山から呼びかけてくる。七月というに、谷川の音に混じって鴬がかしましく饒舌している。然しここでは、鴬も雀程にも珍しく思われない。
谷あいの繁みをわけてゆくと、一軒の廃屋があった。暗い内部には、青苔のぬらぬらした朽ち果てた浴槽があって、湯が滾々《こんこん》とあふれている。手を触れる者さえなくて、噴泉は樋をつたい、外の石畳に落ち、遠く湯川となって、葦の間を流れてゆく。足を浸すと、ぬるい湯が黄色い繊毛と共に纏わり、硫黄の香が漂う。花はまだ季節が早いのか、燕子花《つばめばな》や、赤い蝿取り草ぐらいしか咲いていない。その間に、この辺の人が焼酎に浸けて喰べるというすぐり[#「すぐり」に傍点]が、碧い透きとおった飴球のような実をつけている。時々野薔薇がむせぶように高い香を送って来た。白樺や落葉松の間の、溶岩の散らばった路を上って行くと、急に平らな丘の上に出て、浅間はもう眼の前に噴煙をあげていた。遠く見れば、浅間はただなだらかで端正に裾をひいているが、近づいて見ると、緑色の上着の胸を寛《ひろ》げて、自己の履歴を語るように、焼け爛れた赤錆色の四角な肌を露出している。
私の泊まった家は、病院であって宿屋なのである、いえ宿屋で病院だという方が適当かも知れない。余り病院くさくならないように、消毒液でも臭気のしない高価なものを使うとはいっているが、浅間山の頂を前にした古い田舎屋が病棟なのである。朝早くから百姓のお婆さん達が、病児を背負って遠い道を歩いてくる。診察に来たお婆さんがいうには、
「以前はなァあんた、少し重い病人だと長野までゆきやしたが、近頃はナ、盲腸でも何でも此処で手術して貰えるで、へぇみんな、ずんずん達者になりまさァ」
その有難い院長さんはどんな人かというに、外科手術が多いというから、誰でもあらゆる外科医のタイプを想像してみるだろう。処がそれは、大一番の丸髷に赤い鹿の子のてがら[#「てがら」に傍点]をかけた、たわやかな美人なのである。
「恐いね、女の外科手術なんざァ」泊まっている学生たちが手術室を窺《のぞ》いて、そんな失敬なことをいっていた。然し赤ん坊を抱いた、うら若い花嫁が、白い手術衣を纏って、メスを持ってる姿なんか、とても想像できない。午後は往診の自動車が来て、「サ、坊や、お母ちゃんの往診」御亭主が若い妻の手から赤ん坊を抱きとると、大丸髷の院長さんは、一人の看護婦に鞄を持たせて悠然と車に乗り込む。
夕方はまた夕方で、いろんな患者がこの若い女医をめがけて飛び込んでくる。霧の深いある昏《く》れ方、赤ん坊を抱いた百姓のおかみさんが、汚れた野良着のままで自動車に乗って駈けつけて来た。赤ん坊を便所へ堕《おと》したんだという。生みおとしたんではなく、今は農家が忙しく手廻りかねている隙に、自分から這い込んでしまったという。若い女医は看護婦からそれをきくと、結い立ての艶やかな髪をあげ、細い眉をちょっと顰めて「呼吸してる? 臭かァない?」
と訊《き》き返したが、すぐにまた医者らしい冷静な威容を作って、医務局の方へ出て行くのだった。この人、本当は女子医専を出た産科小児科医だそうだが、何しろ不自由な山の中なので、一般の要求が自然こんな風に外科でも何でも兼ねさせるのだった。
小諸の街で絵葉書を買ったら、千曲川旅情の歌の詩碑のに添えて、作者島崎藤村氏の大写し一枚、映画俳優かと見まごうばかり物々しいのが入っていた。此処まで来たついでに「小諸なる古城のほとり」の碑を見てゆきたいと思って、街を歩いてる人に訊いたら、そんなもの知らないという。今度は床屋へ入って訊いて見た。すると主人が剃刀《かみそり》を持ったまま出て来てニヤッとして教えてくれた。つまらないものを見にくるもんだ――という表情だった。駅の前を、白壁や荒壁の家並について曲がって、踏み切りを渡ると、懐古園と呼ばれている城趾の前へ出る。徳川氏の字で、「懐古園」と大書した額が、城門の上にかかっていた。その前に立札があって、「元和元年仙石秀久築城、寛保二年大水のため流失す、再び明和二年、牧野康満によって改築さる云々」と書いてあった。
茶店のお爺さんに、「島崎さんの碑はどの辺にありますね」と訊くと、動物園を通って、橋を渡って、馬場を突っ切って行くと直ぐだといった。城内はさすがに老木が繁りあっていた。鹿の谷へ降りてみたら昼も暗く、ひんやりとした崖の際に、鹿は無期徒刑の囚人のように、憂鬱にうごめいてた。そこを上っ
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