ある遊郭での出来事
公娼存廃論者への参考資料としての実例
若杉鳥子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)流石《さすが》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)[#「そそくさ」に傍点]
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1 大泥棒の客
ある晩、F楼の亭主が隣家のH楼の電話を借りにいった。
Fにも電話があるのに自分の処へ借りに来たものだから、H楼の亭主は何事かと思って、
『お宅の電話は、どうかしましたか?』
と訊《き》いた。
『ナニ、警察へちょっと……野郎感づくと遁がしちまうから……』
F楼の亭主はそういいながら電話室へ入ると、じきに電話を切って出て来たが、馴れ切った中にも、流石《さすが》に異常な緊張を見せてそそくさ[#「そそくさ」に傍点]と出ていった。
それからすぐにH楼の亭主も、帯をぐっと締めなおして仲間の義理からF楼の帳場へ出掛けていった。
すると間もなく警察から私服の刑事がドヤドヤF楼の店へ入っていった。
刑事の一人が二階へ上がると、他の二人は階段の下で待っていた。
今にも階上で格闘が始まり、凄い物音の起こるであろう事を予期して、階下では皆身構えて固唾《かたず》を嚥《の》んでいた。
およそ十分|許《ばか》りも静かに時が経過した。
すると張りあいがない、ノッシ、ノッシと階段を下りて来た大男は、観念してるもののように平静に階下の刑事と面接した。
男の皮膚は赤銅色をして大きい目鼻は怪鳥のような凄みを持った、馬鹿にのっぽな[#「のっぽな」に傍点]、カインの末裔を思わせるような人間だった。身には少年の着物のようにゆきたけの短い紺絣の筒袖を着ている。
その背後から刑事と二人で下りて来たのは、買われた娼妓の九重だった。
蒼ざめた、然し思い詰めた表情をして、彼女は階段の下に立っていた。
客と刑事とは二三何か問答をして、腰縄を客に打って、一同は店の土間へ降りようとした。降りかけて客は九重の方を顧み、眼で刑事に哀願してから、また九重の傍に戻って来た。男は九重の首を抱き込むようにして、彼女の耳に何事をかささやいた[#底本では「さささやいた」と誤記]。
彼女は身を縮めて、耳を掩うように手を当て眼を閉じていた。
男は前科五犯という強竊盗《ごうせっとう》でこの近郊の産であった。近頃何かの罪で、県下の各警察が捜していた犯人なので、その九重に別れる際いい置いた事は、
『おまえに預けた短刀の事は、決して口外してはならぬぞ、もし口外してくれる時は、必ず出獄後に返礼をする』
そんな意味の事だったが、彼女はすぐにそれを立派に口外してしまったばかりか、短刀は警察の手へ渡して、ほっと息をついた。
然《しか》しその男の出獄まで、幸いにも彼女は年期が開けて足を洗う事ができたからよかった。
それからその遊郭に二三年の月日が流れた。F楼からひかれて投獄された彼《か》の男は、再びこの社会に放たれたのだった。
来て見るとF楼には九重はいなかったが、その隣のH楼に、九重の妹のみどりという女がいた。
この両女は福島地方の農村から、親兄弟の為に売られて来たものだった。
姉妹とも取りたてていう程の美人では勿論ない、けれどもどちらも共通したセンジュアルな容貌の持ち主だった。
そのH楼のみどりの許《もと》に、此頃足繁く通って来て豪遊する客があった。
それは二三年前、F楼にいた姉を買った、強竊盗常習犯の彼であろうとは、みどりは少しも知らなかった。
譬えそれを知っていた処で、拒み得ないのが彼女の境遇ではあったが、遊びぶりの大名のような寛大な処のある彼に、みどりは職業相当の笑顔は向けていた。然し彼の素性が何時迄も耳に入らない筈はない。警察から楼主へ、楼主から朋輩へ――、
『みどりさんのあのお客は、大へんな大泥棒だって、ああこわい、こわい。』
本人のみどりよりも朋輩達が、彼の入って来る顔を見ると、皆一所に寄り添うようにして、露骨に恐怖と憎悪とを表した。
そういう事に敏感ででもあろう彼は、H楼全体の自分への仕向けが、癪に障っている処へ肝心のみどりは、何時も病気だと称して姿を匿してしまうようになった。
客の素性を知ってしまった今は、その客の噂を耳にするさえ悪寒がしたそうだ。
昔からよくある慣いの事ではあるが、生来残忍な自暴自棄の彼だから、忽ち復讐心に燃えずにはいられなかった。
ある日の夕方、みどりは赤い長襦袢一つで、お風呂から上がって女部屋の鏡台に向かっていた。
綺麗に掃除がすんでお客の上がる入り口の閾の上にピラミッド式の盛り塩が、三つばかり人待ち顔に並んでいた。
其処からツカツカと入って来たのは彼だった。H楼の人達は、彼を見るなりギクッとして互いに狼狽した
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