《ち》の上に四|尺《しゃく》も高《たか》く積《つも》りました。その蓮花《れんげ》を明《あ》くる朝《あさ》天子《てんし》さまが御覧《ごらん》になって、そこに橘寺《たちばなでら》というお寺《てら》をお立《た》てになりました。
 またある時《とき》、日本《にほん》の国《くに》からシナの国《くに》へ、小野妹子《おののいもこ》という人をお使《つか》いにやることになりました。その時《とき》太子《たいし》は妹子《いもこ》に向《む》かい、
「シナの衡山《こうざん》という山の上のお寺《てら》は、むかしわたしが住《す》んでいた所《ところ》だ。その時分《じぶん》いっしょにいた僧《そう》たちはたいてい死《し》んだが、まだ三|人《にん》は残《のこ》っているはずだから、そこへ行って、むかしわたしが始終《しじゅう》つかっていた法華経《ほけきょう》の本《ほん》をさがして持《も》って来《き》ておくれ。」
 とおっしゃいました。
 妹子《いもこ》はおいいつけの通《とお》り、シナへ渡《わた》るとさっそく、衡山《こうざん》という所《ところ》へたずねて行きました。そしてその山の上のお寺《てら》へ行くと、門《もん》に一人《ひとり》の小坊主《こぼうず》が立《た》っていました。妹子《いもこ》がこうこういう者《もの》だといって案内《あんない》をたのみますと、小坊主《こぼうず》はもう前《まえ》から知《し》っているといったように、
「和尚《おしょう》さん、和尚《おしょう》さん、思禅法師《しぜんほうし》のお使《つか》いがおいでになりましたよ。」
 といいました。するとお寺《てら》の中から腰《こし》の曲《ま》がったおじいさんの坊《ぼう》さんが三|人《にん》、ことこと杖《つえ》をつきながら、さもうれしそうにやって来《き》て、太子《たいし》の御様子《ごようす》をたずねるやら、昔話《むかしばなし》をするやらしたあとで、妹子《いもこ》のいうままに、一|巻《かん》の古《ふる》い法華経《ほけきょう》を出《だ》して渡《わた》しました。妹子《いもこ》はそれを持《も》って、日本《にほん》へ帰《かえ》ったということです。

     四

 太子《たいし》のお住《す》まいになっていたお宮《みや》は大和《やまと》の斑鳩《いかるが》といって、今《いま》の法隆寺《ほうりゅうじ》のある所《ところ》にありましたが、そこの母屋《おもや》のわきに、太子《たいし》は夢殿《ゆめどの》という小《ちい》さいお堂《どう》をおこしらえになりました。そして一月《ひとつき》に三|度《ど》ずつ、お湯《ゆ》に入《はい》って体《からだ》を浄《きよ》めて、そこへお籠《こも》りになり、仏《ほとけ》の道《みち》の修行《しゅぎょう》をなさいました。
 ある時《とき》太子《たいし》はこの夢殿《ゆめどの》にお籠《こも》りになって、七日七夜《なのかななよ》もまるで外《そと》へお出にならないことがありました。いつもは一晩《ひとばん》ぐらいお籠《こも》りになっても、明日《あす》の朝《あさ》はきっとお出《で》ましになって、みんなにいろいろと尊《とうと》いお話《はなし》をなさるのに、今日《きょう》はどうしたものだろうと思《おも》って、お妃《きさき》はじめおそばの人たちが心配《しんぱい》しますと、高麗《こま》の国《くに》から来《き》た恵慈《えじ》という坊《ぼう》さんが、これは三昧《さんまい》の定《じょう》に入《い》るといって、一心《いっしん》に仏《ほとけ》を祈《いの》っておいでになるのだろうから、おじゃまをしないほうがいいといって止《と》めました。
 するとちょうど八日《ようか》めの朝《あさ》、太子《たいし》は夢殿《ゆめどの》からお出《で》ましになって、
「先《せん》だって小野妹子《おののいもこ》の取《と》って来《き》てくれた法華経《ほけきょう》は、衡山《こうざん》の坊《ぼう》さんがぼけていたと見《み》えて、わたしの持《も》っていたのでないのをまちがえてよこしたから、魂《たましい》をシナまでやって取《と》って来《き》たよ。」
 とおっしゃいました。
 その後《のち》また小野妹子《おののいもこ》が二|度《ど》めにシナへ渡《わた》った時《とき》、衡山《こうざん》のお寺《てら》を訪《たず》ねると、前《まえ》にいた三|人《にん》の坊《ぼう》さんの二人《ふたり》までは死《し》んでしまって、一人《ひとり》だけ生《い》き残《のこ》っておりましたが、その坊《ぼう》さんの話《はなし》に、
「先年《せんねん》あなたのお国《くに》の太子《たいし》が青《あお》い龍《りゅう》の車《くるま》に乗《の》って、五百|人《にん》の家来《けらい》を従《したが》えて、はるばる東《ひがし》の方《ほう》から雲《くも》の上を走《はし》っておいでになって、古《ふる》い法華経《ほけきょう》の一|巻《かん》を取《と》っておいでになりました。」
 と言《い》ったそうでございます。

     五

 太子《たいし》のお妃《きさき》は膳臣《かしわで》の君《きみ》といって、それはたいそう賢《かしこ》くてお美《うつく》しい方《かた》でしたから、御夫婦《ごふうふ》のお仲《なか》もおむつましゅうございました。ある時《とき》ふと太子《たいし》はお妃《きさき》に向《む》かって、
「お前《まえ》とは長年《ながねん》いっしょにくらして来《き》たが、お前《まえ》はただの一言《ひとこと》もわたしの言葉《ことば》に背《そむ》かなかった。わたしたちはしあわせであったと思《おも》う。生《い》きているうちそうであったから、死《し》んでからも同《おな》じ日に、同《おな》じお墓《はか》の中に葬《ほうむ》られたいものだ。」
 とおっしゃいました。お妃《きさき》は涙《なみだ》をお流《なが》しになりながら、
「どうしてそんな悲《かな》しいことをおっしゃるのでございますか。このさき百|年《ねん》も千|年《ねん》も生《い》きていて、おそばに仕《つか》えたいと、わたくしは思《おも》っているのでございますのに。」
 とおっしゃいました。けれども太子《たいし》は首《くび》をおふりになって、
「いやいや、初《はじ》めがあれば終《おわ》りのあるものだ。生《う》まれたものは必《かなら》ず死《し》ぬに極《き》まったものだ。これは人間《にんげん》の定《さだ》まった道《みち》でしかたがない。わたしもこれまでいろいろのものに姿《すがた》をかえ、度々《たびたび》人間《にんげん》の世《よ》に生《う》まれ変《か》わって来《き》て、仏《ほとけ》の道《みち》をひろめた。とうとうおしまいにこの日本国《にほんこく》の皇子《おうじ》に生《う》まれて来《き》て、仏《ほとけ》の道《みち》の跡方《あとかた》もない所《ところ》に法華《ほっけ》の種《たね》を蒔《ま》いた。わたしの仕事《しごと》もこれで出来上《できあ》がったのだから、この上|永《なが》く、むさくるしい人間《にんげん》の世《よ》の中に住《す》んでいようとは思《おも》わない。」
 としみじみとお話《はなし》をなさいました。お妃《きさき》はなおなお悲《かな》しくおなりになって、とめ度《ど》なく涙《なみだ》がこぼれて来《き》ました。
 ちょうどそのころでした。太子《たいし》は摂津《せっつ》の国《くに》の難波《なにわ》のお宮《みや》へおいでになって、それから大和《やまと》の京《きょう》へお帰《かえ》りになるので、黒馬《くろうま》に乗《の》って片岡山《かたおかやま》という所《ところ》までおいでになりますと、山の陰《かげ》に一人《ひとり》物《もの》も食《た》べないとみえて、見《み》るかげもなく、痩《や》せ衰《おとろ》えたこじきが、虫《むし》のように寝《ね》ていました。お供《とも》の人たちは、太子《たいし》のお馬先《うまさき》に見苦《みぐる》しいと思《おも》って、あわてて追《お》いたてようとしますと、太子《たいし》はやさしくお止《と》めになって、食《た》べ物《もの》をおやりになり、情《なさ》けぶかいお言葉《ことば》をおかけになりました。そして帰《かえ》りしなに、
「寒《さむ》いだろうから、これをお着《き》。」
 とおっしゃって、召《め》していた紫色《むらさきいろ》の御袍《おうわぎ》をぬいで、お手《て》ずからこじきの体《からだ》にかけておやりになりました。その時《とき》、
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「しなてるや
片岡山《かたおかやま》に
飯《いい》に飢《う》えて
臥《ふ》せる旅《たび》びと
あわれ親無《おやな》し。」
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 という和歌《わか》をお詠《よ》みになりました。
「しなてるや」というのは、片岡山《かたおかやま》という言葉《ことば》に冠《かぶ》せた飾《かざ》りの枕言葉《まくらことば》で、歌《うた》の意味《いみ》は、片岡山《かたおかやま》の上に御飯《ごはん》も食《た》べずに飢《う》えて寝《ね》ている旅《たび》の男《おとこ》があるが、かわいそうに、親《おや》も兄弟《きょうだい》もない、かなしい身《み》の上《うえ》なのであろうかというのです。
 するとその時《とき》、寝《ね》ていたこじきが、むくむくと頭《あたま》をあげて、
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「斑鳩《いかるが》や
富《とみ》の小川《おがわ》の
絶《た》えばこそ
我《わ》が大君《おおきみ》の
御名《みな》を忘《わす》れめ。」
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 と御返歌《ごへんか》を申《もう》し上《あ》げたといいます。
 歌《うた》の中にある「斑鳩《いかるが》」だの、「富《とみ》の小川《おがわ》」だのというのは、いずれも太子《たいし》のお住《す》まいになっていた大和《やまと》の国《くに》の奈良《なら》に近《ちか》い所《ところ》の名《な》で、その富《とみ》の小川《おがわ》の流《なが》れの絶《た》えてしまうことはあろうとも、太子《たいし》さまの今日《きょう》のお情《なさ》けをけっして忘《わす》れる時《とき》はございませんというのでございます。
 さて太子《たいし》は奈良《なら》の京《きょう》へお帰《かえ》りになりましたが、その後《あと》で片岡山《かたおかやま》のこじきは、とうとう死《し》んでしまいました。太子《たいし》はそれをお聞《き》きになって、たいそうお嘆《なげ》きになり、手《て》あつく葬《ほうむ》っておやりになりました。それを聞《き》いた七|人《にん》の大臣《だいじん》が、太子《たいし》さまともあるものがそんな軽々《かるがる》しい事《こと》をなさるとはといって、やかましく小言《こごと》を申《もう》しました。太子《たいし》はその話《はなし》をお聞《き》きになると、七|人《にん》の大臣《だいじん》を呼《よ》び出《だ》して、
「お前《まえ》たちはそんなむずかしいことをいっていないで、まあ片岡山《かたおかやま》へ行ってごらん。」
 とおっしゃいました。
 大臣《だいじん》たちはぶつぶつ言《い》いながら、ともかくも片岡山《かたおかやま》へ行ってみますと、どうでしょう、こじきのなきがらを収《おさ》めた棺《ひつぎ》の中は、いつか空《から》になっていて、中からはぷんとかんばしい香《かお》りが立《た》ちました。大臣《だいじん》たちはみんな驚《おどろ》いて、太子《たいし》も、このこじきも、みんなただの人ではない、慈悲《じひ》の功徳《くどく》を世《よ》の中の人たちにあまねく知《し》らせるために、尊《とうと》い菩薩《ぼさつ》たちがかりにお姿《すがた》をあらわしたものだろうと思《おも》うようになりました。

     六

 さてこのことがあってから後《のち》間《ま》もなく、太子《たいし》はある日《ひ》お妃《きさき》に向《む》かい、
「いよいよ、いつぞやの約束《やくそく》を果《は》たす日が来《き》た。わたしたちは今夜限《こんやかぎ》りこの世《よ》を去《さ》ろうと思《おも》う。」
 とお言《い》いになりました。
 そして太子《たいし》とお妃《きさき》とはその日お湯《ゆ》を召《め》し、新《あたら》しい白衣《びゃくえ》にお着替《きか》えになって、お二人《ふたり》で夢殿《ゆめどの》にお入《はい》りになり
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