波《なにわ》のお宮《みや》へおいでになって、それから大和《やまと》の京《きょう》へお帰《かえ》りになるので、黒馬《くろうま》に乗《の》って片岡山《かたおかやま》という所《ところ》までおいでになりますと、山の陰《かげ》に一人《ひとり》物《もの》も食《た》べないとみえて、見《み》るかげもなく、痩《や》せ衰《おとろ》えたこじきが、虫《むし》のように寝《ね》ていました。お供《とも》の人たちは、太子《たいし》のお馬先《うまさき》に見苦《みぐる》しいと思《おも》って、あわてて追《お》いたてようとしますと、太子《たいし》はやさしくお止《と》めになって、食《た》べ物《もの》をおやりになり、情《なさ》けぶかいお言葉《ことば》をおかけになりました。そして帰《かえ》りしなに、
「寒《さむ》いだろうから、これをお着《き》。」
 とおっしゃって、召《め》していた紫色《むらさきいろ》の御袍《おうわぎ》をぬいで、お手《て》ずからこじきの体《からだ》にかけておやりになりました。その時《とき》、
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「しなてるや
片岡山《かたおかやま》に
飯《いい》に飢《う》えて
臥《ふ》せる旅《たび》びと
あわれ親無《おやな》し。」
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 という和歌《わか》をお詠《よ》みになりました。
「しなてるや」というのは、片岡山《かたおかやま》という言葉《ことば》に冠《かぶ》せた飾《かざ》りの枕言葉《まくらことば》で、歌《うた》の意味《いみ》は、片岡山《かたおかやま》の上に御飯《ごはん》も食《た》べずに飢《う》えて寝《ね》ている旅《たび》の男《おとこ》があるが、かわいそうに、親《おや》も兄弟《きょうだい》もない、かなしい身《み》の上《うえ》なのであろうかというのです。
 するとその時《とき》、寝《ね》ていたこじきが、むくむくと頭《あたま》をあげて、
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「斑鳩《いかるが》や
富《とみ》の小川《おがわ》の
絶《た》えばこそ
我《わ》が大君《おおきみ》の
御名《みな》を忘《わす》れめ。」
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 と御返歌《ごへんか》を申《もう》し上《あ》げたといいます。
 歌《うた》の中にある「斑鳩《いかるが》」だの、「富《とみ》の小川《おがわ》」だのというのは、いずれも太子《たいし》のお住《す》まいになっていた大和《やまと》の国《くに》の奈良《なら》に近《ちか》い所《ところ》の名《な》で、その富《とみ》の小川《おがわ》の流《なが》れの絶《た》えてしまうことはあろうとも、太子《たいし》さまの今日《きょう》のお情《なさ》けをけっして忘《わす》れる時《とき》はございませんというのでございます。
 さて太子《たいし》は奈良《なら》の京《きょう》へお帰《かえ》りになりましたが、その後《あと》で片岡山《かたおかやま》のこじきは、とうとう死《し》んでしまいました。太子《たいし》はそれをお聞《き》きになって、たいそうお嘆《なげ》きになり、手《て》あつく葬《ほうむ》っておやりになりました。それを聞《き》いた七|人《にん》の大臣《だいじん》が、太子《たいし》さまともあるものがそんな軽々《かるがる》しい事《こと》をなさるとはといって、やかましく小言《こごと》を申《もう》しました。太子《たいし》はその話《はなし》をお聞《き》きになると、七|人《にん》の大臣《だいじん》を呼《よ》び出《だ》して、
「お前《まえ》たちはそんなむずかしいことをいっていないで、まあ片岡山《かたおかやま》へ行ってごらん。」
 とおっしゃいました。
 大臣《だいじん》たちはぶつぶつ言《い》いながら、ともかくも片岡山《かたおかやま》へ行ってみますと、どうでしょう、こじきのなきがらを収《おさ》めた棺《ひつぎ》の中は、いつか空《から》になっていて、中からはぷんとかんばしい香《かお》りが立《た》ちました。大臣《だいじん》たちはみんな驚《おどろ》いて、太子《たいし》も、このこじきも、みんなただの人ではない、慈悲《じひ》の功徳《くどく》を世《よ》の中の人たちにあまねく知《し》らせるために、尊《とうと》い菩薩《ぼさつ》たちがかりにお姿《すがた》をあらわしたものだろうと思《おも》うようになりました。

     六

 さてこのことがあってから後《のち》間《ま》もなく、太子《たいし》はある日《ひ》お妃《きさき》に向《む》かい、
「いよいよ、いつぞやの約束《やくそく》を果《は》たす日が来《き》た。わたしたちは今夜限《こんやかぎ》りこの世《よ》を去《さ》ろうと思《おも》う。」
 とお言《い》いになりました。
 そして太子《たいし》とお妃《きさき》とはその日お湯《ゆ》を召《め》し、新《あたら》しい白衣《びゃくえ》にお着替《きか》えになって、お二人《ふたり》で夢殿《ゆめどの》にお入《はい》りになり
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