な寝しずまっていました。人魚のひいさまは、船のへりに腰をかけて、澄んだ水のなかを、じっとながめていました。おとうさまの御殿が、そこにみえているようにおもわれました。御殿のいちばんの高殿《たかどの》には、おつむりに銀のかんむりをのせたおばあさまが立っていらしって、はやいうしおの流れをすかして、じいっとこちらの船の竜骨《りゅうこつ》をみ上げておいでになるようです。するうち、おねえさまたちが、波の上に出て来ました。そうして、かなしそうな顔で、こちらをみて、その白い手を、せつなそうにこすりました。
 ひいさまは、おねえさまたちにあいずして、にっこりわらいかけて、こちらは不足なくしあわせにしている話をしようとすると、そこへ、船のボーイがふしんらしく寄って来たので、おねえさまたちは水にもぐりました。それで、ボーイも、いま、ちらと白いものがみえたのは、海のあわであったかとおもって、それなりにしてしまいました。
 そのあくる朝、船はおとなりの王さまの国の、きらびやかな都の港にはいっていきました。町のお寺の鐘が、いっせいに鳴りだしました。そこここのたかい塔で、大らっぱを吹きたてました。そのなかで兵隊が、旗を立てて、銃剣をひからせて行列しました。
 さて、それからは、まいにち、なにかしらお祝ごとの催しがありました。舞踏会《ぶとうかい》だの、宴会だの、それからそれとつづきました。でも王さまのお姫さまは、まだすがたをみせません。うわさでは、どこかとおい所の、あるとうといお寺にあずけられていて、そこで王妃たるべき人のいっさいの道を、修めておいでになるということでした。するうち、そのお姫さまもやっとおかえりになりました。
 人魚のひいさまも、いったいどんなにうつくしいのか、はやくそのひとをみたいものだと、気にかかっていましたが、いまみて、いかにも人がらの優美《ゆうび》なのに、かんしんしずにはいられませんでした。はだはうつくしく透《す》きとおるようですし、ながいまっ黒なまつ毛の奥には、ふかい青みをもった、貞実《ていじつ》な目がやさしく笑《え》みかけていました。
「あなたでしたよ。」と、王子はいいました。「[#「「」は底本では欠落]そう、あなたでした。ぼくが死がいも同様で海岸にうち上げられていたとき、すくってくださったのは。」
 こう、王子はいつて、顔をあからめている花よめを、しっかり胸にかかえました。
「ああ、ぼくはあんまり幸福すぎるよ。」と、王子は、人魚のひいさまにいいました。「最上の望みが、しょせん望んでもむだだと[#「むだだと」は底本では「むただと」]あきらめていたそれが、みごとかなったのだもの、おまえ、ぼくの幸福をよろこんでくれるだろう、だっておまえは、どのだれにもまさって、ぼくのことをしんみにおもっていてくれたのだもの。」
 こういわれて、人魚のひいさまは、王子の手にくちびるをあてましたが、心臓《しんぞう》はいまにもやぶれるかとおもいました。ふたりのご婚礼のあるあくる朝は、このひいさまが死んで、あわになって、海の上にうく日でしたものね。
 [#空白は底本では欠落]のこらずのお寺の鐘が、かんかん鳴りわたりました。先ぶれは町じゅう馬をはしらせて、ご婚約《こんやく》のことを知らせました。あるかぎりの祭壇《さいだん》には香油《こうゆ》が、もったないような銀のランプのなかでもえていました。坊さんたちが香炉《こうろ》をゆすっているなかで、花よめ花むこは手をとりかわして、大僧正《だいそうじょう》の祝福をうけました。人魚のひいさまは、絹に金糸の晴れの衣裳《いしょう》で、花よめのながいすそをささげてもちました。でも、お祝の音楽もきこえません。儀式も目にうつりません。ひいさまは、うわの空で、いちずに、くらい死の影を追いました。いっさいこの世でなくしてしまったもののことをおもいました。
 もうその夕方、花よめ花むこは、船にのって海へ出ました。大砲がなりとどろいて、あるだけの旗がひるがえりました。船のまん中には、王家ご用の金とむらさきの天幕《てんまく》が張れて、うつくしいしとねがしけていました。花よめ花むこが、そこですずしい、しずかなひと夜をおすごしになるはずでした。
 帆は風でふくれて、船は、鏡のように平らな海の上を、かるく、なめらかにすべって行きました。くらくなると、さまざまな色ランプがともされて、水夫たちは、甲板にでて、おどけた踊をおどりました。人魚のひいさまも、はじめて海からでて来て、この晩のような華《はな》やかな、たのしいありさまを目にみたときのことを、おもいうかべずにはいられませんでした。それで、ひいさまもついなかまにまじって、おどりくるいたくなりました。ひいさまは、それはまるで、つばめが追われて、身をひるがえして逃げるときのような身がるさでおどりまわりました。そのみごとな踊りぶりを、みんなやんやとさわいでほめました。姫にしてもこれほどみごとに踊ったのははじめてです。おどりながら、きゃしゃな足は、するどい刄もので切りさかれるようにかんじました。けれどそれを痛いともおもいません。それよりか、胸を切りさかれる痛みをせつなくおもいました。
 王子をみるのも、今夜がかぎりということを、ひいさまは知っていました。このひとのために、ひいさまは、親きょうだいをも、ふるさとの家をも、ふり捨てて来ました。せっかくのうつくしい声もやってしまったうえ、くる日もくる日も、はてしないくるしみにたえて来ました。そのくせ、王子のほうでは、そんなことがあったとは、ゆめおもってはいないのです。ほんとうに、そのひととおなじ空気を吸っていて、ふかい海と星月夜の空をながめるのも、これがさいごの夜になりました。この一夜すぎれば、ものをおもうことも、夢をみることもない、ながいながいやみ[#「やみ」に傍点]が、たましいをもたず、ついもつことのできなかった、このひいさまを待っていました。船の上では、でも、たれも陽気にたのしくうかれて、真夜中《まよなか》すぎまでもすごしました。そのなかで、ひいさまは、こころでは、死ぬことをおもいながら、いっしょにわらっておどりました。王子がうつくしい花よめにくちびるをつけると、王女は王子の黒い髪をいじっていました。そうして、手をとりあって、きらびやかな天幕《てんまく》のなかへはいりました。
 船の上は、ひっそり人音もなくなりました、ただ、舵《かじ》とりだけが、あいかわらず、舵をひかえて立っていました。人魚のひいさまは、船のへりにその白い腕をのせて、赤らんでくる東の空をじっとながめていました。そのはじめてのお日さまの光が、じぶんをころすのだ、とひいさまはおもいました。そのときふと、おねえさまたちが、波のなかから出てくるのがみえましたが、たれもひいさまとおなじように、青い顔をしていました。しかも、そのうつくしい髪の毛も、風になびかしてはいませんでした。それはきれいに切りとられていました。
「あたしたち、髪を魔女にやってしまったのよ、あなたをたすけてもらおうとおもってね。なんでもあなたを今夜かぎり死なせたくないのだもの。すると魔女が、ほらこのとおり、短刀をくれましたの。ごらん、ずいぶんよく切れそうでしょう。お日さまののぼらないうち、これで王子の胸をぐさりとやれば、そのあたたかい血が足にかかって、それがひとつになって、おさかなの尾になるの。するち、あんたはまたもとの人魚のむすめになって、海のそこのあたしたちの所にかえれて、このまま死んで塩からい海のあわになるかわりに、このさき三百年生きられるでしょう。さあ、はやくしてね。王子が死ぬかあんたが死ぬか、お日さまののぼるまでに、どちらかにきめなくてはならないのよ。おばあさまは、あまりおなげきになったので、白いお髪《ぐし》がぬけおちておしまいになったわ。あたしたちの髪の毛が魔女のはさみで切りとられてしまったようにね。王子をころして、かえっておいでなさい。早くしてね。ほらもう、あのとおり空に赤みがさして来たわ。もうすぐ、お日さまがおあがりになるわ。すると、いやでも死ななくてはならないのよ。」
 こういって、おねえさまたちは、いかにもせつなそうにため息をつくと、波のなかにすがたをかくしました。
 人魚のひいさまは、天幕《てんまく》にたれたむらさきのとばりをあけました。うつくしい花よめは、王子の胸にあたまをのせて、休んでいました。ひいさまは、腰をかがめて、王子のうつくしいひたいに、そっとくちびるをつけました。東の空をみると、もうあけ方のあかね色がだんだんはっきりして来ました。ひいさまは、そのとき、するどい短刀のきっさきをじっとみて、その目をふたたび王子の上にうつしました。王子は夢をみながら、花よめの名をよびました。王子のこころのなかには、花よめのことだけしかありません。短刀は、人魚のひいさまの手のなかでふるえました。――でも、そのとき、ひいさまは短刀を波間《なみま》とおく投げ入れました。投げた所に赤い光がして、そこから血のしずくがふきだしたようにおもわれました。もういちど、ひいさまは、もう半分うつろな目で、王子をみました、そのせつな、身をおどらせて、海のなかへとび込みました。そうしてみるみる、からだがあわになってとけていくようにおもいました。
 いま、お日さまは、海の上にのぼりました。その光は、やわらかに、あたたかに、死のようにつめたいあわの上にさしました。人魚のひいさまは、まるで死んで行くような気がしませんでした。あかるいお日さまの方を仰ぎました。すると、空の上に、なん百となく、すきとおるような神神《こうごう》しいもののかたちがみえました。そのすきとおるもののむこうに、船の白い帆や、空のあかい雲をみました。空のその声はそのままに歌のふしでしたが、でもそれはたましいの声で、人間の耳にはきこえません。そのすがたもやはり人間の目ではみえません。それは、つばさがなくても、しぜんとかるいからだで、ふうわり空をただよいながら上がって行くのです。人魚のひいさまも、やはりそれとおなじものになって目にはみえないながら、ただよう気息《いき》のようなものが、あわのなかから出て、だんだん空の上へあがって行くのがわかりました。
「どこへ、あたし、いくのでしょうね。」と、人魚のひいさまは、そのときたずねました。その声は、もうそこらにうきただよう気息《いき》のなかまらしく、人間の音楽にうつしようのない、たましいのひびきのようになっていました。すると、
「大空のむすめたちのところへね。」と、ほかのただよう気息《いき》のなかまがいいました、「人魚のむすめに死なないたましいはありません。人間の愛情をうけないかぎり、それをじぶんのものにすることはできません。かぎりないいのちをうけるには、ほかの力にたよるほかありません。大空のむすめたちもながく生きるたましいをもたないかわり、よい行いによって、じぶんでそれをもつこともできるのです。(あたしたちは、あつい国へいきますが、そこは人間なら、むんむとする熱病の毒気で死ぬような所です。そこへすずしい風をあたしたちはもっていきます。空のなかに花のにおいをふりまいて、ものをさわやかにまたすこやかにする力をはこびます。こうして、三百年のあいだつとめて、あたしたちの力のおよぶかぎりのいい行いをしつくしたあと、死なないたましいをさずかり、人間のながい幸福をわけてもらうことになるのです。お気のどくな人魚のひいさま、あなたもやはりあたしたち同様まごころこめて、おなじ道におつとめになったのね。よくも苦みをおこらえなさったのね。それで、いま、大空の気息《いき》の世界へ、ごじぶんを引き上げるまでになったのですよ。あと三百年、よい行いのちからで、やがて死ぬことのないたましいがさずかることになるでしょう。」
[#挿絵(fig42383_04.png)入る]
 そのとき、人魚のひいさまは、神さまのお日さまにむかって、光る手をさしのべて、生まれてはじめての涙を目にかんじました。――そのとき、船の上は、またもがやがやしはじめました。王子と花よめがじぶんをさ
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