山姥の話
楠山正雄
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)山姥《やまうば》
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(例)三|里《り》先《さき》
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山姥《やまうば》と馬子《まご》
一
冬《ふゆ》の寒《さむ》い日でした。馬子《まご》の馬吉《うまきち》が、町《まち》から大根《だいこん》をたくさん馬《うま》につけて、三|里《り》先《さき》の自分《じぶん》の村《むら》まで帰《かえ》って行きました。
町《まち》を出たのはまだ明《あか》るい昼中《ひるなか》でしたが、日のみじかい冬《ふゆ》のことですから、まだ半分《はんぶん》も来《こ》ないうちに日が暮《く》れかけてきました。村《むら》へ入《はい》るまでには山を一つ越《こ》さなければなりません。ちょうどその山にかかった時《とき》に日が落《お》ちて、夕方《ゆうがた》のつめたい風《かぜ》がざわざわ吹《ふ》いてきました。馬吉《うまきち》は何《なん》だかぞくぞくしてきましたが、しかたがないので、心《こころ》の中に観音《かんのん》さまを祈《いの》りながら、一生懸命《いっしょうけんめい》馬《うま》を追《お》って行きますと、ちょうど山の途中《とちゅう》まで来《き》かけた時《とき》、うしろから、
「馬吉《うまきち》、馬吉《うまきち》。」
と、出《だ》しぬけに呼《よ》ぶ者《もの》がありました。
その声《こえ》を聞《き》くと、馬吉《うまきち》は、襟元《えりもと》から水《みず》をかけられたようにぞっとしました。何《なん》でもこの山には山姥《やまうば》が住《す》んでいるという言《い》い伝《つた》えが、昔《むかし》からだれ伝《つた》えるとなく伝《つた》わっていました。馬吉《うまきち》もさっきからふいと、何《なん》だかこんな日に山姥《やまうば》が出るのではないか、と思《おも》っていたやさきでしたから、もう呼《よ》ばれて振《ふ》り返《かえ》る勇気《ゆうき》はありません。何《なん》でも返事《へんじ》をしないに限《かぎ》ると思《おも》って、だまってすたすた、馬《うま》を引《ひ》いて行きました。ところがどういうものだか、気《き》ばかりあせって、馬《うま》も自分《じぶん》も思《おも》うように進《すす》みません。五六|間《けん》行くと、またうしろから、
「馬吉《うまきち》、馬吉《うまきち》。」
と呼《よ》ぶ声《こえ》が聞《き》こえました。しかもせんよりはずっと声《こえ》が近《ちか》くなりました。
馬吉《うまきち》は思《おも》わず耳《みみ》をおさえて、目をつぶって、だまって二足《ふたあし》三足《みあし》行きかけますと、こんどは耳《みみ》のはたで、
「馬吉《うまきち》、馬吉《うまきち》。」
と呼《よ》ばれました。その声《こえ》があんまり大きかったので、馬吉《うまきち》ははっとして、思《おも》わず、
「はい。」
といいながら、ひょいとうしろを振《ふ》り向《む》くと驚《おどろ》きました、もう一|間《けん》とへだたっていないうしろに、ねずみ色《いろ》のぼろぼろの着物《きもの》を着《き》て、やせっこけて、いやな顔《かお》をしたおばあさんが、すっとそこに立《た》っているのです。そして馬吉《うまきち》の顔《かお》を見《み》ると、にたにたと笑《わら》って、やせたいやらしい手で、「おいで、おいで。」をしました。
馬吉《うまきち》は、
「あッ。」
といったなり、そこに立《た》ちすくんでしまいました。するとおばあさんはずんずんそばへ寄《よ》って来《き》て、
「馬吉《うまきち》、馬吉《うまきち》。大根《だいこん》をおくれ。」
といいました。馬吉《うまきち》がだまって大根《だいこん》を一|本《ぽん》抜《ぬ》いて渡《わた》しますと、おばあさんは耳《みみ》まで裂《さ》けているかと思《おも》うような大きな、真《ま》っ赤《か》な口《くち》をあいて、大根《だいこん》をもりもり食《た》べはじめました。もりもりかむたんびに、赤《あか》い髪《かみ》の毛《け》が、一|本《ぽん》一|本《ぽん》逆立《さかだ》ちをしました。
いうまでもなく、それは山姥《やまうば》でした。
山姥《やまうば》は見《み》る見《み》る一|本《ぽん》の大根《だいこん》を食《た》べてしまって、また「もう一|本《ぽん》。」と手を出《だ》しました。それから二|本《ほん》、三|本《ぼん》、四|本《ほん》と、もらっては食《た》べ、もらっては食《た》べ、とうとう馬《うま》の背中《せなか》にのせた百|本《ぽん》あまりの大根《だいこん》を、残《のこ》らず食《た》べてしまうと、もうとっぷり日が暮《く》れてしまいました。
ありったけの大根《だいこん》を残《のこ》らずやってしまったので、馬吉《うまきち》はあとをも見《み》ずに、馬《うま》の口をぐいぐい引《ひ》っぱって、駆《か》け出《だ》して行《い》こうとしました。一生懸命《いっしょうけんめい》駆《か》け出《だ》して、やっと一|町《ちょう》も逃《に》げたと思《おも》うころ、山姥《やまうば》は大根《だいこん》を残《のこ》らず食《た》べてしまって、またどんどん追《お》っかけて来《き》ました。間《ま》もなく追《お》いつくと、こんどは、
「馬《うま》の足《あし》を一|本《ぽん》。」
といいました。もう馬吉《うまきち》は生《い》きている空《そら》はありません。しかたがないので、これもぶるぶるふるえている馬《うま》を山姥《やまうば》にあずけたまま、から身《み》になって、どんどん、どんどん、駆《か》け出《だ》しました。するとどうしたものか、気《き》がせくのと、道《みち》が暗《くら》いので、よけいあわてて、どこかで道《みち》を間違《まちが》えたものとみえて、いくら駆《か》けても駆《か》けても、里《さと》の方《ほう》へは降《お》りられません。行《い》けば行《い》くほど山が深《ふか》くなって、もうどこをどう歩《ある》いているのか、まるで知《し》らない山の中の道《みち》を、心細《こころぼそ》くたどって行くばかりでした。
とうとう山がつきて谷《たに》のような所《ところ》へ出ました。ひょいと見《み》ると、そこに一|軒《けん》うちらしいものの形《かたち》が、夜目《よめ》にもぼんやり見《み》えました。何《なん》でもいい、とにかく入《はい》って、わけを話《はな》して、今夜《こんや》はたのんで泊《と》めてもらおうと思《おも》って、うちの前《まえ》まで来《く》るとすぐ、とんとん、戸《と》をたたきました。でも中はしんと静《しず》まりかえって、明《あか》り一つもれてきません。ぐずぐずしているうちに、山姥《やまうば》が追《お》っかけて来《き》て、見《み》つけられては大《たい》へんだと思《おも》って、馬吉《うまきち》はかまわず戸《と》をあけて、中へ入《はい》りました。
入《はい》ってみると、中は戸障子《としょうじ》もろくろくない、右《みぎ》を向《む》いても、左《ひだり》を向《む》いても、くもの巣《す》だらけの、ひどいあばら家《や》でした。
「なるほど、これではいくらたたいても返事《へんじ》をしないはずだ。人の住《す》んでいないうちなのだ。それでもしかたがない。今夜《こんや》はそっとここにかくれて、夜《よ》の明《あ》けるのを待《ま》つことにしよう。」
と、独《ひと》り言《ごと》をいいながら、馬吉《うまきち》はそっと上《あ》がっていきますと、そこはそれでも二|階家《かいや》で、上は物置《ものおき》のようになっていました。
「同《おな》じかくれるにしても、二|階《かい》の方《ほう》が用心《ようじん》がいい。」と思《おも》って、馬吉《うまきち》は二|階《かい》に上《あ》がって、そっとすすだらけな畳《たたみ》の上にごろりと横《よこ》になりました。横《よこ》になって、どうかして眠《ねむ》ろうとしましたが、何《なん》だか目がさえて眠《ねむ》られません、始終《しじゅう》外《そと》の物音《ものおと》ばかりに気《き》を取《と》られて、胸《むね》をどきどきさせていました。
二
するとその晩《ばん》夜中《よなか》過《す》ぎになって、しっかりしめておいたはずのおもての戸《と》がひとりでにすうっとあいて、だれかが入《はい》って来《き》た様子《ようす》です。
「はてな。」と思《おも》って、馬吉《うまきち》がこわごわはい出《だ》して、二|階《かい》からそっとのぞいてみますと、折《おり》からさし込《こ》む月《つき》の光《ひかり》で、さっきの山姥《やまうば》が、台所《だいところ》のお釜《かま》の前《まえ》に座《すわ》って、独《ひと》り言《ごと》をいっているのが見《み》えました。
「今日《きょう》は久《ひさ》し振《ぶ》りでごちそうだったなあ。大根《だいこん》もうまかった。馬《うま》もうまかった。あれでうっかりしていて、馬吉《うまきち》に逃《に》げられなければ、なおよかったのだけれど、残念《ざんねん》なことをした。」
馬吉《うまきち》はそれを聞《き》くと、ぶるぶるふるえ上《あ》がって、頭《あたま》をおさえてちぢこまってしまいました。
しばらくすると、山姥《やまうば》は大きな口をあいて、大あくびをして、
「ああ、くたびれた。眠《ねむ》くなった。今夜《こんや》はどこに寝《ね》ようかな、臼《うす》の中にしようか。釜《かま》の中にしようか。下に寝《ね》ようか。二|階《かい》に寝《ね》ようか。そうだ、涼《すず》しいから二|階《かい》に寝《ね》よう。」
といいました。
馬吉《うまきち》は「もうこんどこそは助《たす》からない。」と思《おも》いました。「山姥《やまうば》のやつ、おれが上にいるのを知《し》って、上《あ》がってきて食《た》べるつもりだろう。ああ、もうどうしようもない。観音《かんのん》さま、観音《かんのん》さま、どうぞお助《たす》け下《くだ》さいまし。」
こう心《こころ》の中に念《ねん》じながら、今《いま》にも山姥《やまうば》が上《あ》がってくるか、上《あ》がってくるかと待《ま》っていました。
ところが山姥《やまうば》は、すぐにはなかなか上《あ》がってきませんでした。やがてまた大きなあくびをして、
「二|階《かい》に寝《ね》ればねずみがさわぐ。臼《うす》の中《なか》はくもの巣《す》だらけ。釜《かま》の中は温《あたた》かで、用心《ようじん》がいちばんいい。そうだ、やっぱり釜《かま》の中に寝《ね》よう。」
と、独《ひと》り言《ごと》をいいながら、大きなお釜《かま》のふたを取《と》って、中に入《はい》ったかと思《おも》うと、やがてぐうぐう、ぐうぐう、高《たか》いびきで眠《ねむ》ってしまいました。
二|階《かい》からこの様子《ようす》を見《み》ていた馬吉《うまきち》は、そっとはしご段《だん》を下《お》りました。そして抜《ぬ》き足《あし》差《さ》し足《あし》お庭《にわ》へ出て、いちばん大きな石を抱《かか》え上《あ》げて、「うんすん、うんすん。」いいながら、運《はこ》んで来《き》ました。そして「うんとこしょ。」と、石をお釜《かま》の上にのせて、上から重《おも》しをしてしまいました。お釜《かま》の中からはあいかわらず、ぐうぐう、ぐうぐう、高《たか》いびきが聞《き》こえました。お釜《かま》に重《おも》しをしてしまうと、こんどはまた、お庭《にわ》から枯《か》れ枝《えだ》をたくさん集《あつ》めて来《き》て、小《ちい》さく折《お》っては、お釜《かま》の下に入《い》れました。
ぴしりぴしり枯《か》れ枝《えだ》を折《お》る音《おと》が、寝《ね》ている山姥《やまうば》の耳《みみ》に聞《き》こえたとみえて、山姥《やまうば》はお釜《かま》の中で、
[#ここから4字下げ]
「雨《あめ》の降《ふ》る夜《よ》は虫《むし》が鳴《な》く。
ちいちい鳴《な》くのは何虫《なにむし》か。
虫《むし》よ鳴《な》け、鳴《な》け、雨《あめ》が降《ふ》る。
ぱらぱら、ぱらぱら、雨《あめ》
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