かしらん。いや、それもばからしいようだ。それにまだ起きているかどうかわからない。」
 そういいながら、その家の方角をさがしましたが、どうしてもみつかりませんでした。
「どうもひどいことだ。東通がまるでわからなくなった。一軒の店もみえはしない。みすぼらしいたおれかけの小屋がみえるだけだ。これではまるでリョースキレか、リンステッドへでもいったようだ。ああ、おれは病気だぞ。遠慮をしているところでない。だが、いったい代理公使の家はどこなんだろう。どうしてももうもととはちがっている。しかもなかには人がまだ起きている。――どうしてもおれは病気だ。」
 そのとき参事官は、一軒戸のあいている家の前へ出ました。すきまからあかりが往来へさしていました。これはそのころの安宿で、半分居酒屋のようなものでした。ところで、そのなかはホルシュタイン風の百姓家の台所といったていさいでした。なかにはおおぜいの人間が、船乗や、コペンハーゲンの町人や二三人の本読《ほんよみ》もまじって、みんなビールのジョッキをひかえて、むちゅうになってしゃべっていて、はいって来た客にはいっこう気がつかないようでした。
 参事官はお客をむかえにたったおかみさんにいいました。「お気のどくですが、わたしは非常にぐあいがわるいのです。クリスティアンスハウンまで、辻馬車をやとってはもらえませんか。」
 おかみさんは、参事官の顔をうさんらしくみて首をふりました。それからドイツ語で話しかけました。参事官はそれで、おかみさんがデンマルク語を知らないことがわかったので、こんどはドイツ語で同じ註文をくり返しました。その言葉と服装から、おかみさんは、この客をてっきり外国人だとおもい込みました。で、気分のわるそうなようすをみると、さっそく水をジョッキに一杯ついでもって来ました。水はなんだかしょっぱいへんな味がしました。そのくせ外の噴井戸《ふきいど》から汲んで来たのです。
 参事官は両手であたまをおさえて、ふかいためいきをつきながら、いまし方つづいておこった奇妙なことを、あれこれとおもいめぐらしていました。
「それはきょうの*『ダーエン』ですか。」と、参事官は、おかみさんがもっていきかけた大きな紙をみて、ほんのおせじにききました。
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*コペンハーゲン発行の夕刊新聞。一八〇五―四三。
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 お上さんは、なにを客がいうのだかわかりませんでしたから、だまってその紙を渡しました。それはむかし、キョルンの町にあらわれたふしぎな空中|現象《げんしょう》をかいた一枚の木版刷《もくはんずり》でした。
「こりゃなかなか古い。」と参事官は、あんがいな掘り出しもので、おおきに愉快になりました。
「おまえさん、このめずらしい刷物《すりなの》をどうして手に入れたのだね。こりゃなかなかおもしろいものだよ。もっとも話はまるっきりおとぎばなしだがね。今日では、これに類した空中現象は、北極光をみあやまったものだということになつている。おそらく電気の作用でおこるものらしい。」
 すると参事官のすぐそばにすわって、この話をきいた人たちが、びっくりしてその顔をながめました。そして、そのうちのひとりは、たち上がって、うやうやしく帽子をぬいで、ひどくしかつめらしく「先生、どうも、あなたはたいそうな学者でおいでになりますな。」といいました。
「いやはや、どういたしまして。」と、参事官は答えました。「ついだれでも知っているはずのことをふたことみこと、お話しただけですよ。」
「けんそんは美徳で。」とその男はラテン語まじりにいいました。「[#「「」は底本では欠落]もっともお説にたいして、わたくしは異説をさしはさむものであります。しかしながら、わたくしの批判はしばらく保留いたしましよう。」
「失礼ながら、あなたはどなたですか。」と、参事官がたずねました。
「わたくしは聖書得業士でして。」と、その男が答えました。
 その答で参事官は十分でした。その人の称号と服装はそれによくつりあっていました。多分、これは村の老先生というやつにちがいない。よくユラン(ユットランド)地方でみかけるかわりものだと参事官はおもいました。
「ここはいかにも学者清談の郷ではありませんな。」と、その男はつづけていいだしました。「しかしどうかまげてお話しください。あなたはむろん、古書はふかくご渉猟《しょうりょう》でしょうな。」
「はい、はい、それはな。」と、参事官は受けて、「わたしも有益な古書を読むことは大好きですが、とうせつの本もずいぶん読みます。ただ困るのは『その日、その日の話』というやつで、わざわざ本でよまないでも、毎日のことで飽き飽きしますよ。」
「[#「「」は底本では「『」]『その日、その日の話』といいますと。」と、得業士はふしんそうにききました。
「いや、わたしのいうのは、このごろはやる新作の小説のことですよ。」
「ははあ。」と、得業士はにっこりしながら、「あれもなかなか気のきいたものでして、宮中ではずいぶん読まれていますよ。*王様はとりわけ、アーサー王と円卓《えんたく》の騎士の話を書いた、イフヴェンとゴーディアンの物語を好いていられます。それでご家来の人達とあの話をして興《きょう》がっていられます。」
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*デンマルクの詩人ホルベルのデンマルク国史物語に、ハンス王が寵臣のオットー ルードとアーサー王君臣の交りについてとんち問答した話がかいてある。なお、「その日その日の物語」は、文士ハイベルの母のかきのこした身の上話。
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「それはまだ読んでいません。」と、参事官はいいました。「ハイベルが出した新刊の本にちがいありませんね。」
「いや、ハイベルではありません。ゴットフレト フォン ゲーメンが出したのです。」と、学士は答えました。
「へへえ、その人は作者ですか。」と、参事官がたずねました。「ゴットフレト フォン ゲーメンといえば、すいぶん古い名まえですね。あれはなんでも、ハンス王時代、デンマルクで印刷業をはじめた人ではありませんか。」
「そうですとも。この国でははじめての印刷屋さんですよ。」と、学士が答えました。
 ここまではどうにかうまくいきました。こんどは町人のひとりが、三年まえ流行した伝染病の話をしだしました。ただそれは一四八四年の話でした。参事官はそれを一八三〇年代はやったコレラの話をしているのだとおもいました。そこで会話は、どうにかつじつまがあいました。一四九〇年の海賊戦争もつい近頃のことでしたから、これも話題にのぼらずにいませんでした。で、イギリスの海賊船が、やはり同じ波止場か船をりゃくだつしていった、とその男は話しました。ところで、*一八〇一年の事件をよく知っている参事官は、進んでその話に調子をあわせて、イギリス人に攻撃をしかけました。これだけはまずよかったが、そのあとの話はそううまくばつがあいませんでした。ひとつひとつに話がくいちがいました。学士先生は気のどくなほどなにも知りませんでした。参事官のごくかるく口にしたことまでが、いかにもでたらめな、気ちがいじみた話にきこえました。そうなると、ふたりはだまって顔ばかりみあわせました。いよいよいけないとなると、学士はいくらか相手にわからせることができるかとおもって、ラテン語で話しましたけれど、いっこう役には立ちませんでした。
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*一八〇一年四月二日英艦の攻撃事件。
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「あなた、ご気分はどうですね。」と、おかみさんはいって、参事官のそでをひっぱりました。
 ここではじめて、参事官はわれにかえりました。話でむちゅうになっているあいだは、これまでのことをいっさい忘れていたのです。
「やあ、たいへん、わたしはどこにいるのだ。」と、参事官はいって、それをおもいだしたとたん、くらくらとなったようでした。
「さあ、クラレットをやろうよ。蜜酒に、ブレーメン・ビールだ。」と、客のひとりがさけびました。
「どうです、いっしょにやりたまえ。」
 ふたりの給仕のむすめがはいって来ました。そのひとりは*[#「*」は底本では欠落]ふた色の染分け帽子をかぶって来ました。ふたりはお酒をついでまわって、おじぎをしました。参事官はからだじゅうぞっとさむけがするようにおもいました。
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*ハンス王時代下等な酌女のしるし。
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「やあ、こりゃなんだ。こりゃなんだ。」と、参事官はさけびました。けれども、いやでもいっしょに飲まなければなりませんでした。客どもはごくたくみにこの紳士《しんし》をあつかいました。参事官はがっかりしきっていました。たれか、「あの男酔っぱらっているよ。」といったものがありましたが、そのことばをうそだとおこるどころではありません。どうぞ、ドロシュケ(辻馬車)を一台たのむといったのが精いっぱいでした。ところがみんなはそれをロシア語でも話しているのかとおもいました。
 参事官は、これまでこんな下等な乱暴ななかまにはいったことはありませんでした。
「これではまるで、デンマルクの国が、異教国の昔にかえったようだ。こんなおそろしい目にあったことははじめてだぞ。」と、参事官はおもいました。しかしそのときふとおもいついて、参事官はテーブルの下にもぐりこんで、そこから戸口の所まではい出そうとしました。そのとおりうまくやって、ちょうど出口までいったところを、ほかの者にみつけられました。みんなは参事官の足をとって引きもどしました。そのとき大仕合わせなことには、うわおおいぐつがすっぽりぬけました。――それでいっさいの魔法が消えてなくなりました。
 そのとき参事官ははっきりと、すぐ目のまえに、街灯がひとつ、かんかんともっていて、そのうしろに大きな建物の立っているのをみつけました。そこらじゅうみまわしても、おなじみのあるものばかりでした。それは、今の世の中で毎日みているとおりの東通でした。参事官は玄関の戸に足をむけて腹ンばいになっていたのです。すぐむこうには町の夜番が、すわって寝込んでいました。
「やあたいへん、おれは往来で寝て、夢をみていたのか。」と、参事官はさけびました。「なるほど、これは東通だわい。どうもなにかが、かんかんあかるくって、にぎやかだな。それにしてもいっぱいのポンスのききめはじつにおそろしい。」
 それから二分ののち参事官は、ゆうゆうと辻馬車のなかにすわって、クリスティアンス ハウンのじぶんの家のほうへはこばれて[#「はこばれて」は底本では「はこぱれて」]いきました。参事官はいましがたさんざんおそろしい目や心配な目にあったことをおもいだすと、今の世の中には、それはいろいろわるいことはあっても、ついさっきもっていかれた昔の時代よりはずっとましだということをさとりました。どうですね、参事官は、もののわかったひとでしょう。
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    三 夜番のぼうけん

[#挿絵(fig42380_03.png)入る]
「おやおや、あすこにうわおいぐつが一足ころがっている。」と夜番はいいました。「きっとむこうの二階にいる中尉さんの物にちがいない。すぐ門口にころがっているから。」
 正直な夜番は、ベルをならして、うわおいぐつを持主にわたそうとおもいました。二階にはまだあかりがついていました。けれど、うちのなかのほかの人たちまでおどろかすのも気のどくだとおもったので、そのままにしておきました。
「だが、こういうものをはいたら、ずいぶん温かいだろうな。」と、夜番はひとりごとをいいました。「なんて上等なやわらかい革がつかってあるのだろう。」うわおいぐつはぴったり夜番の足にあいました。「どうも、世の中はおかしなものだ。いまごろ中尉さんは、あの温かい寝床のなかで横になっていればいられるはすなのだ。ところが、そうでない。へやのなかをいったり来たり、あるいている。ありゃしあわせなお人さな。おかみさんもこどももなくて、毎晩、夜会にでかけていく。おれがあの人だったらずいぶんしあわせな人間だろ
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