しまなければならないことがずいぶんあるものです。取りわけ足に幸福のうわおいぐつなんかはいているときは、たれだって、よけい注意がかんじんです。まあそのとき、夜番の身の上に、どんなことがおこったとおもいますか。
たれしも知っている限りでは、蒸気の物をはこぶ力の早いことはわかっています。それは鉄道でもためしてみたことだし、海の上を汽船でとおってみてもわかります。ところが蒸気の速力などは、光がはこぶ早さにくらべれば、なまけもの[#「なまけもの」に傍点]がのそのそ歩いているか、かたつむりがむずむずはっているようなものです。それは第一流の競走者の千九百万倍もはやく走ります。電気となるともっと早いのです。死ぬというのは電気で心臓を撃たれることなので、その電気のつばさにのって、からだをはなれた魂はとんで行きます。太陽の光は、二千万マイル以上の旅を、八分と二、三秒ですませてしまいます。ところで電気の早飛脚《はやびきゃく》によれば、たましいは、太陽と同じ道のりを、もっと少い時間でとんでいってしまいます。天体と天体とのあいだを往きかいするのは、同じ町のなかで知っている同士が、いやもっと近く、ついお隣同士が往きかいするのと大してちがったことではありません。でも、この下界では心臓を電気にうたれると、からだがはたらかなくなる危険があります。ただこの夜番のように、幸福のうわおいぐつをはいているときだけは、べつでした。
なん秒かで、夜番は五万二千マイルの道をいって、月の世界までとびました。それは、地の上の世界とはちがった、ずっと軽い材料でできていました。そしていわば降りだしたばかりの雪のようにふわふわしています。夜番は例の*メードレル博士の月世界大地図で、あなた方もおなじみの、かずしれず環《わ》なりに取りまわした山のひとつにくだりました。山が輪になってめぐっている内がわに、切っ立てになったはち[#「はち」に傍点]形のくぼみが、なんマイルもふかく掘れていました。その堀の底に町があって、そのようすはちょっというと、卵の白味を、水を入れたコップに落したというおもむきですが、いかにも、さわってみると、まるで卵の白味のように、ぶよぶよやわらかで、人間の世界と同じような塔や、円《まる》屋根のお堂や、帆のかたちした露台《ろだい》が、薄い空気のなかに、すきとおって浮いていました。さて人間の住む地球は、大きな赤
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