れきし》に由緒《ゆいしょ》の深い古城《こじょう》の主人であった。
 わたしが汽車からとび下りて、押送《おうそう》の巡査《じゅんさ》の手からのがれて船に乗った、あの海岸から西へ二十里(約八十キロ)へだたった所に、わたしの美しい城《しろ》はあった。
 このミリガン・パークの本邸《ほんてい》に、わたしは母と、弟と、妻《つま》と、自分とで、家庭を作っていた。
 半年前からわたしは城内《じょうない》の文庫《ぶんこ》にこもって、わたしの長い少年時代の思い出を、せっせと書きつづっていた。わたしたちはちょうど長男のマチアのために洗礼式《せんれいしき》を上げようとしている。今夜わたしのやしきには貧窮《ひんきゅう》であった時代の友だちが集まって、いっしょに洗礼式《せんれいしき》を祝《いわ》おうとしている、わたしの書きつづった少年時代の思い出は一|冊《さつ》の本にできあがっていた。今夜集まる人たちに一冊ずつ分けるつもりである。
 これだけわたしのむかしの友だちの集まるということが、わたしの妻《つま》をおどろかした。かの女はこの一夜に、父親と、姉《あね》と、兄と、おばさんに会うはずであった。ただ母と弟にはまだ内証《ないしょう》にしてあった。もう一人この席《せき》にだいじな人が欠《か》けていた。それはあの気のどくなヴィタリス親方。
 親方の生きているあいだには、わたしはなにもこの人のためにしてやることができなかった。でもわたしは母にたのんで、この人のために大理石の墓《はか》を築《きず》かせた。その墓の上にはカルロ・バルザニの半身像《はんしんぞう》をすえさせた。その半身像の複製《ふくせい》はこうして書いているわたしの卓上《たくじょう》にあった。「思い出の記」を書いている間《ま》も、わたしはたびたび目を上げてこの半身像をながめた。わたしの目はわけなくこの像にひきつけられた。わたしはこの人をけっして忘《わす》れることができない。なつかしいヴィタリス親方を忘れることはできない。
 そう思っているとき、母が弟のうでにもたれかかって出て来た。弟のアーサはもうすっかりおとなになって、からだもじょうぶになって、いまではりっぱに母をだきかかえする人になっていた。母の後ろからすこしはなれて、フランスの百姓《ひゃくしょう》女のようなふうをした婦人《ふじん》が、白いむつき(おむつ)に包《つつ》まれた赤子をだいてついて来た。これこそむかしのバルブレンのおっかあで、だいている子どもは、わたしのむすこのマチアであった。
 アーサがそのとき「タイムズ」新聞を一|枚《まい》持って来て、ウィーンの通信記事《つうしんきじ》を読めといって見せてくれた。それを見ると、いまは大音楽家になったマチアが、演奏会《えんそうかい》を一とおりすませたところで、とりわけウィーンでの大成功《だいせいこう》がかれをせつに引き止めているにかかわらず、あるやむにやまれないやくそくを果《は》たすため、ただちにイギリスに向かって出発の途《と》に着いたと書いてあった。わたしはそのうえ新聞記事をくどくどと読む必要《ひつよう》がなかった。いまでこそ世間はかれを、ヴァイオリンのショパンだといってほめそやすが、わたしはとうからかれのめざましい成長発達《せいちょうはったつ》を予期《よき》していた。わたしと弟とかれと三人、同じ教師《きょうし》について勉強していたじぶん、マチアは、ギリシャ語やラテン語こそいっこう進歩はしなかったが、音楽ではずんずん先生を凌駕《りょうが》(しのぐ)していた。こうなると、マンデの床屋《とこや》さん兼業《けんぎょう》の音楽家エピナッソー先生の予言《よげん》がなるほどとうなずかれた。
 そのとき、配達夫《はいたつふ》が一通の電報《でんぽう》を配達《はいたつ》して来た。その文言《もんごん》にはこうあった。
「海上はなはだあらく、ひどくなやまされた。とちゅうパリに一|泊《ぱく》。妹クリスチーナを同伴《どうはん》四時に行く。出むかえの馬車をたのむ。マチア」
 クリスチーナの名が出たので、わたしはアーサの顔を見た。するとかれはきまり悪そうに目をそらせた。アーサがマチアの妹のクリスチーナを愛《あい》していることはわたしにはわかっていた。そしていつか、それがいますぐというのではなくとも、母がこの結婚《けっこん》を承知《しょうち》することはわかっていた。子どもの誕生《たんじょう》のお祝《いわ》いばかりですむものではない。母はわたしの結婚にも反対しなかった。いまにそうするのが、つまりアーサのためだとわかれば、これにも反対するはずがなかった。
 リーズ、わたしの美しい美しいリーズがろうかを通って出て来て、わたしの母の頭に手をかけた。
「ねえ、お母さま」とかの女は言った。「あなたはうまくたくらみ[#「たくらみ」に傍点]にかかって
前へ 次へ
全82ページ中80ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
楠山 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング