《けいけん》とちえで、のちに困難《こんなん》におちいった場合、わたしたちのひじょうな力になったのであった。
マチアの心配
春の来るのはおそかったが、とうとう一家がロンドンを去る日が来た。馬車がぬりかえられて、商品が積《つ》みこまれた。そこにはぼうし、肩《かた》かけ、ハンケチ、シャツ、膚着《はだぎ》、耳輪《みみわ》、かみそり、せっけん、おしろい、クリーム、なんということなしにいろいろなものが積《つ》まれた。
馬車はもういっぱいになった。馬が買われた。どこからどうして買ったか、わたしは知らなかったが、いつのまにか馬が来ていた。それでいっさい出発の用意ができた。
わたしたちは、いったい祖父《そふ》といっしょにうちに残《のこ》るのか、一家とともに出かけるのか、知らずにいた。けれど父親はわたしたちが音楽でなかなかいい金を取るのを見て、まえの晩《ばん》わたしたちにかれについて行って音楽をやれと言いわたした。
「ねえ、フランスへ帰ろうよ」とマチアは勧《すす》めた。「いまがいいしおどきだ」
「なぜイギリスを旅行して歩いてはいけないのだ」
「なぜならここにいると、きっとなにか始まるにちがいないから。それにフランスへ行けば、ミリガン夫人《ふじん》とアーサを見つけるかもしれない。アーサが加減《かげん》が悪いのだと、夫人《ふじん》はきっと船に乗せて来るだろう。もうだんだん夏になってくるから」
でもわたしはかれに、どうしてもこのままいなければならないと言った。
その日わたしたちは出発した。その午後かれらがごくわずかの値打《ねう》ちしかない品物を売るところを見た。わたしたちはある大きな村に着くと、馬車は広場に引き出されていた。その馬車の横側《よこがわ》は低《ひく》くなっていて、買い手の欲《よく》をそそるように美しく品物がならんでいた。
「値段《ねだん》を見てください。値段を見てください」と父親はさけんだ。「こんな値段はどこへ行ったってあるものじゃありません。まるで売るんじゃない。ただあげるのだ。さあさあ」
「あいつはどろぼうして来たにちがいない」
品物の値段《ねだん》づけを見た往来《おうらい》の人がちょいちょいこう言っているのをわたしは聞いた。かれらがもしそのとき、そばでわたしがきまり悪そうな顔をしているのを見たら、いよいよ推察《すいさつ》の当たっていることを知ったであろう。
かれらはしかしわたしに気がつかなかったとしても、マチアは気がついていた。
「いつまできみはこれをしんぼうしていられるのだ」とかれは言った。
わたしはだまっていた。
「フランスへ帰ろうよ」とかれはまた勧《すす》めた。「なにか起こる。もうすぐになにか起こるとぼくは思う。おそかれ早かれ、ドリスコルさんが、こう品物を安売りするところを見れば、巡査《じゅんさ》がやって来るのはわかっている。そうなればどうする」
「おお、マチア……」
「きみが目をふさいでいれば、ぼくはいよいよ大きく目をあいていなければならない。ぼくたちは二人ともつかまえられる。なにもしなくっても、どうしてその証拠《しょうこ》を見せることができよう。ぼくたちは現《げん》にあの人がこの品物を売って得《え》た金で、三度のものを食べているのではないか」
わたしはついにそこまでは考えなかった。こう言われて、いきなり顔をまっこうからなぐりつけられたように思った。
「でもぼくたちはぼくたちで自分の食べ物を買う金は取っている」と、わたしはどもりながら弁護《べんご》しようとした。
「それはそうだ。けれどぼくたちはどろぼうといっしょに住まっていた」と、マチアはこれまでよりはいっそう思い切った調子で答えた。「それでもし、ぽくたちが牢屋《ろうや》へやられればもう、きみのほんとうのうちの人を探《さが》すこともできなくなるだろう。それにミリガン夫人《ふじん》にも、あのジェイムズ・ミリガンに気をつけるように言ってやりたい。あの人がアーサにどんなことをしかねないか、きみは考えないのだ。まあ行けるうちに少しも早く行こうじゃないか」
「まあもう二、三日考えさしてくれたまえ」とわたしは言った。
「では早くしたまえ。大男|退治《たいじ》のジャックは肉のにおいをかいだ――ぼくは危険《きけん》のにおいをかぎつけている」
こんなふうにして煮《に》えきれずにいるうちに、とうとうぐうぜんの事情《じじょう》が、わたしに思い切ってできなかったことをさせることになった。それはこうであった。
わたしたちがロンドンを立ってから数週間あとであった。父親は競馬《けいば》のあるはずの町で、屋台店の車を立てようとしていた。マチアとわたしは商売のほうになにも用がないので、町からかなりへだたっていた競馬場《けいばじょう》を見に行った。
イギリスの競馬場のぐる
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