いた。そのきりの深いといっては、つい二足三足前がやっと見えるくらいであった。このきりのまくの中でたまたまわたしたちのやっている音楽に耳を止めている人も、もうすぐそばのカピの姿《すがた》を見なかった。これはわたしたちの仕事にはじつにやっかいなことであった。でもこのきりのおかげを、もう二、三分あとでは、どれほどこうむらなければならないことであったか、それだけはまるで考えもつかなかった。
わたしたちはいちばん人通りの多い町の一つを通って行くと、ふとカピがいっしょにいないことを発見した。この犬はいつだって、わたしたちのあとにぴったりついて来るのであったから、これはめずらしいことであった。わたしはあとから追いつけるようにかれを待っていた。ある暗い路地口《ろじぐち》に立って、なにしろわずかの距離《きょり》しか見えなかったから、そっと口ぶえをふいた。わたしはかれがぬすまれたのではないかと心配し始めたとき、かれは口に毛糸のくつ下を一足くわえてかけてやって来た。前足をわたしに向けてかれは一声ほえながらそのくつ下をささげた。かれはもっともむずかしい芸《げい》の一つをやりとげたときと同様に、得意《とくい》らしくわたしの賞賛《しょうさん》を求《もと》めていた。これはほんの二、三秒の出来事であった。わたしは開いた口がふさがらなかった、するとマチアは片手《かたて》でくつ下《した》をつかんで、片手《かたて》でわたしを路地口《ろじぐち》から引《ひ》っ張《ぱ》った。
「早く歩きたまえ。だが、かけてはいけない」とかれはささやいた。
かれはしばらくしてわたしに言うには、しき石の上でかれのわきをかけて通った男があって、「どろぼうはどこへ行った、つかまえてやるぞ」と言いながら行ったというのである。わたしたちは路地《ろじ》の向こうの出口から出て行った。
「きりが深くなかったら、ぼくたちは危《あぶ》なくどろぼうの罪《つみ》で拘引《こういん》されるところだったよ」とマチアは言った。しばらくのあいだ、わたしはほとんど息をつめて立っていた。うちの人たちはわたしの正直なカピにどろぼうを働《はたら》かせたのだ。
「カピをしっかりおさえていたまえ」とわたしは言った。「うちへ帰ろう」
わたしたちは急いで歩いた。
父親と母親は机《つくえ》の前にこしをかけて、せっせと品物をしまいこんでいた。
わたしはいきなりくつ下をほうり出した。アレンとネッドはぷっとふきだした。
「さあ、これがくつ下です」とわたしは言った。「あなたがたはぼくの犬をどろぼうにしましたね。ぼくは人のなぐさみに使うために犬を連《つ》れて行ったのだと思っていました」
わたしはふるえていて、ほとんど口がきけなかった。でもこのときはどしっかりした決心をしたことはなかった。
「うん、なぐさみのほかに使ったら」と父親は反問した。「おまえ、どうするつもりだ。聞きたいものだね」
「ぼくはカピの首になわを巻《ま》きつけて、これほどかわいい犬ですけれど、ぼくはあいつを水にしずめてしまいます。わたしは自分がどろぼうにされたくないと同様、カピをどろぼうにはしてもらいたくないのです。いつかわたしがどろぼうにならなければならないようなことがあれば、わたしは犬といっしょにすぐ水にしずんでしまいます」
父親はわたしの顔をしげしげと見ていた。わたしはかれがよっぽどわたしを打とうとしかけたと思った。かれの目は光った。でもわたしはたじろがなかった。
「おお、ではよしよし」とかれは思い返して言った。「またそういうことのないように、おまえ、これからは自分でカピを連《つ》れて歩くがいい」
ごまかし
わたしは二人の子どもにげんこつを見せていた。わたしはかれらにものを言うことはできなかったが、でもかれらはわたしの様子で、このうえわたしの犬をどうにかすれば、わたしにひどい目に会うであろうと思った。わたしはカピを保護《ほご》するためには、かれら二人と戦《たたか》うつもりでいた。
その日からうちじゅうの者は残《のこ》らず、大っぴらでわたしに対して憎悪《ぞうお》を見せ始めた。祖父《そふ》はわたしがそばに寄《よ》ると、腹立《はらだ》たしそうにつばをはいてばかりいた。男の子と上の妹はかれらにできそうなあらゆるいたずらをした。父親と母親はわたしを無視《むし》して、いてもいない者のようにあつかった。そのくせ毎晩《まいばん》わたしから金を取り立てることは忘《わす》れなかった。
こうしてわたしがイギリスへ上陸《じょうりく》したとき、あれほどの愛情《あいじょう》を感じていた全家族はわたしに背中《せなか》を向けた。たった一人赤んぼうのケートが、わたしのかまうことを許《ゆる》した。でもそれすら、かくしにかの女のためのキャンデーか、みかんの一つ持ち合わせないときに
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