れば外へぼくたちが出てもいいというのだ」
「たったそれだけしか言わないの」とわたしはこの翻訳《ほんやく》がたいへん簡単《かんたん》すぎると思って言った。
マチアはまごついたようであった。
「そのほかのことばはよくわかったか、どうだか知らない」とかれは言った。
「ではわかったと思うだけ言いたまえ」
「なんでもあの人は、ぼくたちも町でなにか商売でもして、一もうけして来るがいい。ただ飯《めし》を食われてはやりきれない、というようなことを言っていたと思う」
祖父《そふ》はかれの言ったことを、マチアが説明《せつめい》して聞かしているとさとったものらしく、中気《ちゅうき》でないほうの手でなにかをかくしにおしこもうとするような身ぶりをして、それから目配せをして見せた。
「出かけよう」とわたしはすぐに言った。
二、三時間のあいだわたしたちはそこらを歩き回ったが、道に迷《まよ》ってはいけないと思って遠くへは行かなかった。ベスナル・グリーンは夜見るよりも昼見るとさらにひどい所であった。マチアとわたしは、ほとんど口をきかなかった。ときどきかれはわたしの手をにぎりしめた。
わたしたちがうちへ帰ったとき、母親はまだ部屋《へや》から出て来なかった。開け放したドアのすきからわたしはかの女が机《つくえ》の上につっぷしているのを見た。かの女は病気なのだと思ったが、わたしは話をすることができないから、代わりにキッスしようと思って、そばへかけて行った。
するとかの女はふらふらする頭を持ち上げて、わたしのほうをながめたが、顔は見なかった。かの女の熱《あつ》い息の中には、ぷんとジン酒のにおいがした。わたしは後ずさりをした。かの女の頭はまた下がって、机《つくえ》の上にぐったりとなった。
「ジンに当たったのだよ」と祖父《そふ》は言って、歯をむき出した。
わたしはそのほうは見向きもせずにじっと立ちどまった。からだが石になったように感じた。どのくらいそうして立っていたか知らなかった。ふとわたしはマチアのほうを向いた。かれは両眼《りょうがん》になみだをいっぱいうかべて、わたしを見ていた。わたしはかれに合図をして、また二人でうちを出た。
長いあいだわたしたちはおたがいの手を組み合ってならんで歩きながら、何も言わずに、どこへ行こうという当てもなしに、まっすぐに歩いた。
「ルミ、きみはどこへ行くつもりだ」とかれはとうとう心配そうにたずねた。
「ぼくは知らない。どこかへとだけしか言えない。マチア、ぼくはきみと話がしたい。だがこの人ごみの中では話もできない」
わたしたちはそのとき、いつか広い町へ出ていた。そのはずれには公園があった。わたしたちはそこまでかけて行って、こしかけにこしをかけた。
「ねえ、マチア、ぼくがどんなにきみを愛《あい》しているか、知ってるだろう。だから今度ぼくがうちの人たちに会いに来るとき、いっしょにきみに来てもらったのは、きみのためを思ったことだったのだ。きみはぼくがなにをたのんでも、ぼくの友情《ゆうじょう》を疑《うたが》いはしないだろうねえ」とわたしは言った。
「ばかなことを言いたまえ」とかれは無理《むり》に笑《わら》って言った。
「きみはぼくを泣《な》きださせまい思って、そんなふうに笑うのだね」とわたしは答えた。「ぼくはきみといっしょにいるときに、泣けないなら、いつ泣くことができよう。でも……おお……マチア、マチア」
わたしは両うでをなつかしいマチアの首にかけて、ほろほろなみだをこぼした。わたしはこんなに情《なさ》けなく思ったことはなかった。わたしがこの広い世界に独《ひと》りぼっちであったじぶん、かえってわたしはこのしゅんかんほどに不幸《ふこう》だとは感じなかった。わたしはすすり泣《な》きをしてしまったあとで、やっと気を落ち着けることができた。わたしがマチアを公園に連《つ》れて来たのは、かれのあわれみを求《もと》めるためではなかった。それはわたしのためではなかった。かれのためであった。
「マチア」とわたしは思い切って言った。「きみはフランスへ帰らなければならないよ」
「きみを捨《す》てて、どうして」
「ぼくはきみがそう答えるだらうと思っていた。それを聞いてぼくはうれしい。ああ、きみがぼくといっしょにいたいというのは、まったくうれしい。けれどマチア、きみはすぐにフランスへ帰らなければならないよ」
「なぜさ、そのわけを言いたまえ」
「だって……ねえ、マチア、こわがってはいけないよ。きみはゆうべねむったかい。きみは見たかい」
「ぼくはねむらなかったよ」とかれは答えた。
「するときみは見た……」
「ああ残《のこ》らず」
「そうしてきみはそのわけがわかったか」
「あの品物が、代《だい》をはらったものでないことはわかるよ。だって、きみのお父さんは、あの男たち
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