兄弟も、女のご姉妹《きょうだい》もあります」とかれは答えた。
「へえ」
 かれはベルをおした。書記が出て来ると、かれはその人にわたしたちの世話をするように言いつけた。
「おお、忘《わす》れていました」とグレッス氏《し》が言った。「あなたの名字《みょうじ》はドリスコルで、あなたのお父上の名前は、ジョン・ドリスコル氏です」
 グレッス氏のみにくい顔は好《この》ましくなかったが、わたしはそのときよほどかれにとびついてだきしめようと思った。しかしかれはその時間をあたえなかった。かれの手はすぐに戸口をさした。で、わたしたちは書記について外へ出た。


     ドリスコル家

 往来《おうらい》へ出ると、書記は辻馬車《つじばしゃ》を呼《よ》んで、わたしたちに中へとびこめと言いつけた。きみょうな形の馬車で、上からかぶさっているほろの後ろについたはこに、御者《ぎょしゃ》がこしをかけていた。あとでこれがハンサム馬車というものだということを知った。
 マチアとわたしはカピを間にはさんですみっこにだき合っていた。書記が一人であとの席《せき》を占領《せんりょう》していた。マチアはかれが御者《ぎょしゃ》に向かって、ベスナル・グリーンへ馬車をやれと言いつけているのを聞いた。御者はそこまで馬車をやることをあまり好《この》まないように見えた。マチアとわたしは、きっとそこは遠方なせいであろうと思った。
 わたしたち二人はグリーン(緑)というイギリス語がどういう意味だか知っていた。ベスナル・グリーンはきっとわたしの一家の住んでいる大きな公園の名前にちがいなかった。長いあいだ馬車はロンドンのにぎやかな町を走って行った。それはずいぶん長かったから、そのやしきはきっと町はずれにあるのだと思った。グリーンということばから考えると、それはいなかにあるにちがいないと思われた。でも馬車から見るあたりの景色《けしき》はいっこうにいなからしい様子にはならなかった。わたしたちはひどくごみごみした町へはいった。まっ黒などろが馬車の上にはね上がった。それからわたしたちはもっとひどいびんぼう町のはうへ曲がって、ときどき御者《ぎょしゃ》も道がわからないのか、馬車を止めた。
 とうとうかれはすっかり馬車を止めてしまった。ハンサムの小窓《こまど》を中に、グレッス・アンド・ガリーの書記さんと、困《こま》りきった御者《ぎょしゃ》との間におし問答が始まった。なんでもマチアが聞いたところでは、御者はもうとても道がわからないと言って、書記にどちらの方角へ行けばいいか、たずねているのであった。書記は自分もこんなどろぼう町へなんかこれまで来たことがなかったからわからないと答えた。わたしたちはこの「どろぼう」ということばが耳に止まった。すると書記はいくらか金を御者《ぎょしゃ》にやって、わたしたちに馬車から下りろと言った。御者はわたされた賃金《ちんぎん》を見て、ぶつぶつ言っていたが、やがてくるりと方向を変《か》えて馬車を走らせて行った。
 わたしたちはいまイギリス人が「ジン酒の宮殿《きゅうでん》」と呼《よ》んでいる酒場の前の、ぬかるみの道に立った。案内《あんない》の先生はいやな顔をしてそこらを見回して、それからその「ジン酒の宮殿《きゅうでん》」の回転ドアを開けて中へはいった。わたしたちはあとに続《つづ》いた。わたしたちはこの町でもいちばんひどい場所にいるのであったが、またこれほどぜいたくな酒場も見なかった。そこには金ぶちのわくをはめた鏡《かがみ》がどこにもここにもはめてあって、ガラスの花燭台《はなしょくだい》と、銀のようにきらきら光るりっぱな帳場があった。けれどもそこにいっぱい集まっている人たちは、どれもよごれたぼろ[#「ぼろ」に傍点]をかぶった人たちであった。
 案内者《あんないしゃ》は例《れい》のりっぱな帳場の前についであった一ぱいの酒をがぶ飲みにして、それから給仕《きゅうじ》の男に自分の行こうとする場所の方角を聞いた。確《たし》かにかれは求《もと》めた返事を得《え》たらしく、また回転ドアをおして外へ出た。わたしたちはすぐあとについて出た。
 通りはいよいよせまくなって、こちらのうちから向こうのうちへ物干《ものほ》しのつなが下がって、きたならしいぼろ[#「ぼろ」に傍点]がかけてあった。その戸口にこしをかけていた女たちは、青い顔をして、よれよれな髪の毛《け》が肩《かた》の上までだらしなくかかっていた。子どもたちはほとんど裸体《らたい》で、たまたま二、三人着ているのも、ほんのぼろ[#「ぼろ」に傍点]であった。路地《ろじ》にはぶたが、たまり水にぴしゃぴしゃ鼻面《はらづら》をつけて、そこからはくさったようなにおいがぷんと立った。
 案内者《あんないしゃ》はふと立ち止まった。かれは道を失《うしな》ったらしかった。け
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