におし問答が始まった。なんでもマチアが聞いたところでは、御者はもうとても道がわからないと言って、書記にどちらの方角へ行けばいいか、たずねているのであった。書記は自分もこんなどろぼう町へなんかこれまで来たことがなかったからわからないと答えた。わたしたちはこの「どろぼう」ということばが耳に止まった。すると書記はいくらか金を御者《ぎょしゃ》にやって、わたしたちに馬車から下りろと言った。御者はわたされた賃金《ちんぎん》を見て、ぶつぶつ言っていたが、やがてくるりと方向を変《か》えて馬車を走らせて行った。
 わたしたちはいまイギリス人が「ジン酒の宮殿《きゅうでん》」と呼《よ》んでいる酒場の前の、ぬかるみの道に立った。案内《あんない》の先生はいやな顔をしてそこらを見回して、それからその「ジン酒の宮殿《きゅうでん》」の回転ドアを開けて中へはいった。わたしたちはあとに続《つづ》いた。わたしたちはこの町でもいちばんひどい場所にいるのであったが、またこれほどぜいたくな酒場も見なかった。そこには金ぶちのわくをはめた鏡《かがみ》がどこにもここにもはめてあって、ガラスの花燭台《はなしょくだい》と、銀のようにきらきら光るりっぱな帳場があった。けれどもそこにいっぱい集まっている人たちは、どれもよごれたぼろ[#「ぼろ」に傍点]をかぶった人たちであった。
 案内者《あんないしゃ》は例《れい》のりっぱな帳場の前についであった一ぱいの酒をがぶ飲みにして、それから給仕《きゅうじ》の男に自分の行こうとする場所の方角を聞いた。確《たし》かにかれは求《もと》めた返事を得《え》たらしく、また回転ドアをおして外へ出た。わたしたちはすぐあとについて出た。
 通りはいよいよせまくなって、こちらのうちから向こうのうちへ物干《ものほ》しのつなが下がって、きたならしいぼろ[#「ぼろ」に傍点]がかけてあった。その戸口にこしをかけていた女たちは、青い顔をして、よれよれな髪の毛《け》が肩《かた》の上までだらしなくかかっていた。子どもたちはほとんど裸体《らたい》で、たまたま二、三人着ているのも、ほんのぼろ[#「ぼろ」に傍点]であった。路地《ろじ》にはぶたが、たまり水にぴしゃぴしゃ鼻面《はらづら》をつけて、そこからはくさったようなにおいがぷんと立った。
 案内者《あんないしゃ》はふと立ち止まった。かれは道を失《うしな》ったらしかった。け
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