死ななければならないと思っているのだ。そこでおまえにひとつ心得《こころえ》てもらいたいことがある。世の中は戦争《せんそう》のようなもので、だれでも自分の思うようにはゆかないものだということだ」
そうだ、老人《ろうじん》の言ったことはほんとうであった。貴《とうと》い経験《けいけん》から出た訓言《くんげん》(教訓)であった。でもその訓言よりももっと力強い一つの考えしか、わたしはそのとき持っていなかった。それは『別《わか》れのつらさ』ということであった。
わたしはもう二度とこの世の中で、いちばん好《す》きだった人に会うことができないのだ。こう思うとわたしは息苦しいように感じた。
「まあ、わたしの言ったことばをよく考えてごらん。おまえはわたしといれば不幸《ふしあわ》せなことはないよ」と老人《ろうじん》は言った。「孤児院《こいじん》などへやられるよりはいくらましだかしれない。それで言っておくが、おまえはにげ出そうとしてもだめだよ。そんなことをすれば、あのとおりの広野原《ひろのはら》だ。カピとゼルビノがすぐとおまえをつかまえるから」
こう言ってかれは目の前のあれた高原《こうげん》を指さした。そこにはやせこけたえにしだ[#「えにしだ」に傍点]が、風のまにまに波のようにうねっていた。
にげ出す――わたしはもうそんなことをしようとは思わなかった。にげていったいどこへわたしは行こう。
この背《せい》の高い老人《ろうじん》は、ともかく親切《しんせつ》な主人であるらしい。
わたしは一息にこんなに歩いたことはなかった。ぐるりに見るものはあれた土地と小山ばかりで、村を出たらば向こうはどんなに美しかろうと思ったほど、この世界は美しくはなかった。
老人《ろうじん》はジョリクールを肩《かた》の上に乗せたり、背嚢《はいのう》の中に入れたりして、しじゅう規則《きそく》正しく、大またに歩いていた。三びきの犬はあとからくっついて来た。
ときどき老人はかれらに優《やさ》しいことばをかけていた。フランス語で言うこともあったし、なんだかわからないことばで言うこともあった。
かれも犬たちもくたびれた様子がなかった。だがわたしはつかれた。足を引きずって、この新しい主人にくっついて歩くのが精《せい》いっぱいであった。けれども休ませてくれとは言いだし得《え》なかった。
「おまえがくたびれるのは木のくつのせいだよ」とかれは言った。「いずれユッセルへ着いたらくつを買ってやろう」
このことばはわたしに元気をつけてくれた。わたしはしじゅうくつが欲しいと思っていた。村長のむすこも、はたごやのむすこもくつを持っていた。それだから日曜というとかれらはお寺へ来て石のろうかをすべるように走った。それをわれわれほかのいなかの子どもは、木ぐつでがたがた、耳の遠くなるような音をさせたものだ。
「ユッセルまではまだ遠いんですか」
「ははあ、本音《ほんね》をふいたな」とヴィタリスが笑《わら》いながら言った。「それではくつが欲《ほ》しいんだな。よしよし、わたしはやくそくをしよう。それも大きなくぎを底《そこ》に打ったやつをなあ。それからビロードの半ズボンとチョッキとぼうしも買ってやる。それでなみだが引っこむことになるだろう。なあ、そうしてもらおうじゃないか。そしてあと六マイル(約四十キロ)歩いてくれるだろうなあ」
底《そこ》にくぎを打ったくつ、わたしは得意《とくい》でたまらなかった。くつをはくことさええらいことなのに、おまけにくぎを打ってある。わたしは悲しいことも忘《わす》れてしまった。
くぎを打ったくつ、ビロードの半ズボンに、チョッキに、ぼうし。
まあバルブレンのおっかあがわたしを見たらどんなにうれしがるだろう。どんなに得意《とくい》になるだろう。
けれども、なるほどくつとビロードがこれから六マイル歩けばもらえるというやくそくはいいが、わたしの足はそんな遠方まで行けそうにもなかった。
わたしたちが出かけたときに青あおと晴れていた空が、いつのまにか黒い雲にかくれて、細かい雨がやがてぽつぽつ落ちて来た。
ヴィタリスはそっくりひつじの毛皮服にくるまっているので、雨もしのげたし、さるのジョリクールも、一しずく雨がかかるとさっそくかくれ家《が》ににげこんだ。けれども犬とわたしはなんにもかぶるものがないので、まもなく骨《ほね》まで通るほどぬれた。でも犬はぬれてもときどきしずくをふり落とすくふうもあったが、わたしはそんなことはできなかった。下着までじくじくにぬれ通って、骨まで冷《ひ》えきっていた。
「おまえ、じきかぜをひくか」と主人は聞いた。
「知りません。かぜをひいた覚《おぼ》えがないから」
「それはたのもしいな。だがこのうえぬれて歩いてもしようがないことだから、少しでも早くこの先の村へ行
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