味《きょうみ》のあることではないでしょうか」
 こういうふうに説《と》かれて、医者は行きかけていた戸口からもどって来た。
 ジョリクールはたぶんこのめがねをかけた人が医者だということをさとったとみえて、またうでをつき出した。
「ほらね」と親方がさけんだ。「あのとおり刺絡《しらく》していただくつもりでいます」
 これで医者の足が止まった。
「ひじょうにおもしろい。なかなかおもしろい実験《じっけん》だ」とかれはつぶやいた。
 一とおり診察《しんさつ》して、医者はかわいそうなジョリクールが今度もやはり肺炎《はいえん》にかかっていることを告《つ》げた。医者はさるの手を取って、その血管《けっかん》に少しも苦しませずにランセット(針)をさしこんだ。ジョリクールはこれできっと治《なお》ると思った。刺絡《しらく》をすませて、医者はいろいろと薬剤《やくざい》にそえて注意をあたえた。わたしはもちろんとこの中にはいってはいなかった。親方の言いつけに従《したが》って、看護婦《かんごふ》を務《つと》めていた。
 かわいそうなジョリクール。かれは自分を看護してくれるのでわたしを好《す》いていた。かれはわたしの顔を見てさびしく笑《わら》った。かれの顔つきはひじょうに優《やさ》しかった。
 いつもあれほど、せっかちで、かんしゃく持ちで、だれにもいたずらばかりしていたかれが、それはもうおとなしく従順《じゅうじゅん》であった。
 その後毎日、かれはいかにわたしたちをなつかしがっているかを示《しめ》そうと努《つと》めた。それはこれまでたびたびかれのいたずらの犠牲《ぎせい》であったカピに対してすらそうであった。
 肺炎《はいえん》のふつうの経過《けいか》として、かれはまもなくせきをし始めた、この発作《ほっさ》のたびごとに小さなからだがはげくふるえるので、かれはひどくこれを苦しがった。
 わたしの持っていたありったけの五スーで、わたしはかれに麦菓子《むぎがし》を買ってやった。けれどこれはよけいかれを悪くした。
 かれのするどい本能《ほんのう》で、かれはまもなくせきをするたんびにわたしが麦菓子をくれることに気がついた。かれはそれをいいことにして、自分のたいへん好《す》きな薬をもらうために、しじゅうせきをした。それでこの薬はかれをよけい悪くした。
 かれのこのくわだてをわたしが見破《みやぶ》ると、もちろん麦菓子《むぎがし》をやることをやめたが、かれは弱らなかった。まずかれは哀願《あいがん》するような目つきでそれを求《もと》めた。それでくれないと見ると、かれはとこの上にすわって両手を胸《むね》の上に当てたまま、からだをゆがめて、ありったけの力でせきをした。かれの額《ひたい》の青筋《あおすじ》がにょきんととび出して、なみだが目から流れた。そしてのどのつまるまねをするのが、しまいには本物になって、もう自分でおさえることができないほどはげしくせきこんだ。
 わたしはいつも親方が一人で出て行ったあと、ジョリクールといっしょに宿屋《やどや》に残《のこ》っていた。ある朝かれが帰って来ると、宿《やど》の亭主《ていしゅ》がとどこおっている宿料《しゅくりょう》を要求《ようきゅう》したことを話した。かれがわたしに金の話をしたのはこれが初《はじ》めてであった。かれがわたしの毛皮服を買うために時計を売ったということはほんのぐうぜんにわたしの聞き出したことであって、そのほかにはかれのふところ具合がどんなに苦しいか、ついぞ打ち明けてもらったことはなかったが、今度こそかれはもうわずか五十スーしかふところに残《のこ》っていないことを話した。
 こうなってただ一つ残《のこ》った手だてとしては、今夜さっそく一|興行《こうぎょう》やるほかにないとかれは考えていた。
 ゼルビノもドルスもジョリクールもいない興行。まあ、そんなことができることだろうか、とわたしは思った。
 それができてもできなくても、どう少なく見積《みつ》もってもすぐ四十フランという金をこしらえなければならないとかれは言った。ジョリクールの病気は治《なお》してやらなければならないし、部屋《へや》には火がなければならないし、薬も買わなければならないし、宿《やど》にもはらわなければならない。いったん借《か》りている物を返せば、あとはまた貸《か》してもくれるだろう。
 この村で四十フラン。この寒空といい、こんなあわれない一座《いちざ》でなにができよう。
 わたしが、ジョリクールといっしょに宿《やど》に待っているあいだに親方がさかり場で一けん見世物小屋を見つけた。なにしろ野天《のてん》で興行《こうぎょう》するなんということはこの寒さにできない相談《そうだん》であった。かれは広告《こうこく》のびらを書いて、ほうぼうにはり出したり、二、三|枚《まい》の板でかれ
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