法律《ほうりつ》の命ずるところだ。きさまは知っているはずだ」
このときはちょうど『下剤《げざい》をかけた病人』という芝居《しばい》をやっている最中《さいちゅう》でツールーズでは初《はじ》めての狂言《きょうげん》なので、見物もいっしょうけんめいになっていた。
それで巡査《じゅんさ》の干渉《かんしょう》に対して、見物がこごとを言い始めた。
「じゃまをするない」
「芝居《しばい》をさせろよ、おまわりさん」
親方はそのときまず見物のさわぐのをとどめて、さて毛皮のぼうしをぬぎ、そのかざりの羽根《はね》が地面の砂《すな》と、すれすれになるほど、三度まで大げさなおじぎを巡査《じゅんさ》に向かってした。
「権力《けんりょく》を代表せられる令名《れいめい》高き閣下《かっか》は、わたくしの一座《いちざ》の俳優《はいゆう》どもに、口輪《くちわ》をはめろというご命令《めいれい》でございますか」
とかれはたずねた。
「そうだ。それもさっそくするのだ」
「なに、カピ、ゼルビノ、ドルスに口輪《くちわ》をはめろとおっしゃるか」親方は巡査《じゅんさ》に向かって言うよりも、むしろ見物に対して聞こえよがしにさけんだ。「さてさてこれは皮肉なお考えですな。なぜと申せば、音に名高き大先生たるカピ君《ぎみ》が、鼻の先に口輪をかけておりましては、どうして不幸《ふこう》なるジョリクール氏《し》が服すべき下剤《げざい》の調合を命ずることができましょう。物もあろうに口輪《くちわ》などとは、氏が医師《いし》たる職業《しょくぎょう》がふさわしからぬ道具であります」
この演説《えんぜつ》が見物をいっせいに笑《わら》わした。子どもたちの黄色い声に親たちのにごった声も交じった。親方はかっさいを受けると、いよいよ図に乗って弁《べん》じ続《つづ》けた。
「さてまたかの美しき看護婦《かんごふ》ドルス嬢《じょう》にいたしましても、ここに権力《けんりょく》の残酷《ざんこく》なる命令《めいれい》を実行いたしましたあかつきには、いかにしてあの巧妙《こうみょう》なる弁舌《べんぜつ》をもって、病人に勧《すす》めてよくその苦痛《くつう》を和《やわら》ぐる下剤《げざい》を服用させることができましょうや。賢明《けんめい》なる観客諸君《かんきゃくしょくん》のご判断《はんだん》をあおぎたてまつります」
見物人の拍手《はくしゅ》かっさいと笑《わら》い声《ごえ》で、しかしその答えはじゅうぶんであった。みんなは親方に賛成《さんせい》して巡査《じゅんさ》を嘲弄《ちょうろう》した。とりわけジョリクールがかげでしかめっ面《つら》をするのをおもしろがっていた。このさるは『権力《けんりょく》が代表せられる令名《れいめい》高き閣下《かっか》』の真後《まうし》ろに座《ざ》をかまえてこっけいなしかめっ面をして見せていた。巡査《じゅんさ》は両うでを組んで、それからまた放して、げんこつをこしに当てて、頭を後ろに反《そ》らせていた。そのとおりをさるはやっていた。見物人らはおかしがって、きゃっきゃっと言っでいた。
巡査はそのときふとなにをおもしろがっているのか見ようとして後ろをふり向いた。するとしばらくのあいださると人間とはたがいににらみ合わなければならなくなった。どちらが先に目をふせるか問題であった。
群衆《ぐんしゅう》はおもしろがって金切り声を上げていた。
「きさまの飼《か》い犬《いぬ》があすも口輪《くちわ》をしていなかったらすぐきさまを拘引《こういん》する。それだけを言いわたしておく」
「さようなら閣下《かっか》。ごきげんよろしゅう。いずれ明日」と親方は言って頭を下げた。
巡査《じゅんさ》が大またに出て行くと、親方はこしをほとんど地べたにつくほどに曲げて、からかい面《づら》に敬礼《けいれい》していた。そして芝居《しばい》は続《つづ》けて演《えん》ぜられた。
わたしは親方が犬の口輪《くちわ》を買うかと思っていたけれども、かれはまるでそんな様子はなかった。その晩《ばん》は巡査とけんかをしたことについては一|言《ごん》の話もなしに過《す》ぎた。
わたしはとうとうがまんがしきれなくなって、こちらからきりだした。
「あしたもしカピが芝居《しばい》の最中《さいちゅう》に、口輪《くちわ》を食い切るようなことがあるといけませんから、まえからそれをはめておいて慣《な》らしてやらないでもいいでしょうか。わたしたちはカピによくはめているように教えこむことができるでしょう」
「おまえはあれらの小さな鼻の上にそんな物をのせたいとわたしが思っているというのか」
「でも巡査《じゅんさ》がやかましく言いますから」
「おまえはんのいなかの子どもだな。百姓《ひゃくしょう》らしくおまえは巡査をこわがっているのか。心配するなよ。わたしはあしたうまい具合に取り
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