足を止める値打《ねう》ちもないので、かまわずずんずん進んで行く。
一つの町に五、六日も続《つづ》けて滞留《たいりゅう》いているようなときには、カピがついていさえすれば、親方はわたしを一人手放して外へ出してくれた。親方はつまりわたしをカピに預《あず》けたのである。
「おまえは同じ年ごろの子どもがたいがい学校に行っている時代に、ひょんなことからフランスの国じゅうを歩く回り合わせになっているのだ」と親方はあるときわたしに言った。「だから学校へ行く代わりに、自分で目を開いて、よくものを見て覚《おぼ》えるのだ。見てわからないものがあったら、かまわずにわたしに質問《しつもん》するがいい。わたしだってなんでも知っているわけではないが、一とおりおまえの知りたい心を満足《まんぞく》させるだけのことはできるだろう。わたしもいまのような人間でばかりはなかった。かなりむかしはいろいろほかの気のきいたことも知っていた」
「どんなことを」
「それはまたいつか話そうよ。ただまあ、むかしから犬やさるの見世物師《みせものし》でもなかったことだけ知ってもらえばよい。なんでも人間は心がけしだいで、いちばん低《ひく》い位置《いち》からどんなにも高い位置《いち》に上ることができる。これも覚《おぼ》えていてもらいたい。それでおまえが大きくなったとき、どうかまあ、気のどくな旅の音楽師《おんがくし》が自分を養《やしな》い親《おや》の手から引きさらって行ったときには、つらくもこわくも思ったようなものも、つまりそれがよかったのだと思って、喜《よろこ》んでくれるときがあればいいと思うのだ。まあ、こうして境遇《きょうぐう》の変《か》わるのが、つまりはおまえのために悪くはないかもしれないのだからな」
いったいこの親方はもとはなんであったろう、わたしは知りたいと思った。
さてわたしたちはだんだんめぐりめぐって行って、ローヴェルニュからケルシーの高原にはいった。これはおそろしくだだっ広くってあれていた。小山が波のようにうねっていて、開けた土地もなければ、大きな樹木《じゅもく》もなかったし、人通りはごく少なかった。小川もなければ池もない。所どころ水がかれきって、石ばかりの谷川が目にはいるだけであった。その原っぱのまん中にバスチード・ミュラーという小さな村があった。わたしたちはこの村のある宿屋《やどや》の物置《ものお》きに一夜を過《す》ごした。
「そうだ、この村だったよ」とヴィタリス親方が言った。「しかもこの同じ宿屋だったかもしれないが、のちに何万という軍勢《ぐんぜい》を率《ひき》いる大将《たいしょう》がここで生まれたのだ。初《はじ》めはうまやのこぞうから身を起こして、公爵《こうしゃく》がなり、のちには王さまになった。名前をミュラーと言った。みんながその人を英雄《えいゆう》と呼《よ》んで、この村をもその名前で呼ぶことになった。わたしはその男を知っていた。たびたびいっしょに話をしたこともあった」
わたしもさすがにことばをはさまずにはいられなかった。
「うまやのこぞうだったときにですか」
「いいや」と親方は笑《わら》いながら答えた。「もう王さまだったじぶんにだよ。今度|初《はじ》めてわたしはこの地方にやって来たのだ。わたしはその男が王さまだったナポリの宮殿《きゅうでん》で知り合いになったのだ」
「あなたは王さまと知り合いなのですか」
わたしのこういった調子は少しこっけいであったとみえて、親方はさもゆかいそうに笑《わら》いだした。
わたしたちはうまやの戸の前のこしかけにこしをかけて、昼間の太陽のぬくもりのまだ残《のこ》っているかべに背中《せなか》をおしつけていた。われわれの頭の上におっかぶさっている大きないちじくの木の中で夕ぜみが鳴いていた。母屋《おもや》の屋根の上には、いま出たばかりの満月《まんげつ》が静《しず》かに青空に上がっていた。その日は昼間こげるように暑かったので、それがいっそう心持ちよく思われた。
「おまえ、とこにはいりたいか」と親方はたずねた。「それともミュラー王の話でもしてもらいたいと思うか」
「ああ、どうぞそのお話をしてください」
そこで親方はわたしとこしかけの上にいるあいだ、長物語をしてくれた。親方が話をしているうちに、だんだん青白い月の光がななめにさしこんできた。わたしはむちゅうになって耳を立てた。両方の目をすえてじっと親方の顔を見ていた。
わたしはまえにこんなむかし物語などを聞いたことがなかった。だれがそんな話をして聞かせよう。バルブレンのおっかあはとても話すわけがない。かの女はそんな話は少しも知らなかった。かの女はシャヴァノンで生まれて、たぶんはそこで死ぬのだろう。かの女の心は目で見るかぎりをこえて先へは行かなかった。それもアンドゥーズ山の頂《いただき》か
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