一本のわら
楠山正雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大和国《やまとのくに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三七二十一|日《にち》
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一
むかし、大和国《やまとのくに》に貧乏《びんぼう》な若者《わかもの》がありました。一人《ひとり》ぼっちで、ふた親《おや》も妻《つま》も子供《こども》もない上に、使《つか》ってくれる主人《しゅじん》もまだありませんでした。若者《わかもの》はだんだん心細《こころぼそ》くなったものですから、これは観音《かんのん》さまにお願《ねが》いをする外《ほか》はないと思《おも》って、長谷寺《はせでら》という大きなお寺《てら》のお堂《どう》におこもりをしました。
「こうしておりましては、このままあなたのお前《まえ》でかつえ死《じ》にに死《し》んでしまうかも知《し》れません。あなたのお力《ちから》でどうにかなるものでしたら、どうぞ夢《ゆめ》ででもお教《おし》え下《くだ》さいまし。その夢《ゆめ》を見《み》ないうちは、死《し》ぬまでここにこうしておこもりをしておりますから。」
こういって、その男は観音《かんのん》さまの前《まえ》につっ伏《ぷ》しました。それなり幾日《いくにち》たっても動《うご》こうとはしませんでした。
するとお寺《てら》の坊《ぼう》さんがそれを見《み》て、
「あの若者《わかもの》は毎日《まいにち》つっ伏《ぷ》したきり、物《もの》も食《た》べずにいる様子《ようす》だが、あのまま置《お》いてかつえ死《じ》にに死《し》なれでもしたら、お寺《てら》の汚《けが》れになる。」
とぶつぶつ口小言《くちこごと》をいいながら、そばへ寄《よ》って来《き》て、
「お前《まえ》はだれに使《つか》われている者《もの》だ。いったいどこで物《もの》を食《た》べるのか。」
と聞《き》きました。若者《わかもの》はとろんとした目《め》を少《すこ》しあけて、
「どうしまして、わたしのような運《うん》の悪《わる》い者《もの》は使《つか》ってくれる人もありません。ごらんのとおり、もう幾日《いくにち》も何《なに》も食《た》べません。せめて観音《かんのん》さまにおすがり申《もう》して、生《い》きるとも死《し》ぬとも、この体《からだ》をどうにでもして頂《いただ》こうと思《おも》うのです。」
といいました。坊《ぼう》さんたちはそこで相談《そうだん》して、
「困《こま》ったものだな。うっちゃっておくわけにもいかない。仮《かり》にも観音《かんのん》さまにお願《ねが》い申《もう》しているというのだから、せめて食《た》べ物《もの》だけはやることにしよう。」
といって、みんなで代《か》わる代《が》わる、食《た》べ物《もの》を持《も》って行ってやりました。若者《わかもの》はそれをもらって食《た》べながら、とうとう三七二十一|日《にち》の間《あいだ》、同《おな》じ所《ところ》につっ伏《ぷ》したまま、一生懸命《いっしょうけんめい》お祈《いの》りをしていました。
いよいよ二十一|日《にち》のおこもりをすませた明《あ》け方《がた》に、若者《わかもの》はうとうとしながら、夢《ゆめ》を見《み》ました。それは観音《かんのん》さまのまつられているお帳《とばり》の中から、一人《ひとり》のおじいさんが出《で》てきて、
「お前《まえ》がこの世《よ》で運《うん》の悪《わる》いのは、みんな前《まえ》の世《よ》で悪《わる》いことをしたむくいなのだ。それを思《おも》わないで、観音《かんのん》さまにぐちをいうのは間違《まちが》っている。けれども観音《かんのん》さまはかわいそうにおぼしめして、少《すこ》しのことならしてやろうとおっしゃるのだ。それでとにかく早《はや》くここを出《で》ていくがいい。ここを出《で》たら、いちばん先《さき》に手《て》にさわったものを拾《ひろ》って、それはどんなにつまらないものでもだいじに持《も》っているのだ。そうすると今《いま》に運《うん》が開《ひら》けてくる。さあそれでは早《はや》く出《で》ていくがいい。」
と追《お》い立《た》てるようにいわれたと思《おも》うと、ふと目《め》を覚《さ》ましました。
若者《わかもの》はのそのそ起《お》き上《あ》がって、いつものとおり坊《ぼう》さんの所《ところ》へ行《い》って、食《た》べ物《もの》をもらって食《た》べると、すぐにお寺《てら》を出《で》ていきました。
するとお寺《てら》の大門《おおもん》をまたぐひょうしに、若者《わかもの》はひょいとけつまずいて、前《まえ》へのめりました。そしてころんだはずみに、見《み》ると、路《みち》の上に落《お》ちていた一|本《ぽん》のわらを、思《おも》わず手につかんでいました。
若者《わかもの》は、
「何《なん》だわらか。」
といって、つい捨《す》てようとしましたが、さっきの夢《ゆめ》に、「手にさわったものは何《なん》でもだいじに持《も》っておれ。」といわれたことを思《おも》い出《だ》して、これも観音《かんのん》さまのおさずけものかも知《し》れないと思《おも》って、手の中でおもちゃにしながら持《も》っていきました。
二
しばらく行くと、どこからかあぶが一|匹《ぴき》飛《と》んできて、ぶんぶんうるさく顔《かお》のまわりを飛《と》び回《まわ》りました。若者《わかもの》はそばにある木の枝《えだ》を折《お》って、はらいのけはらいのけして歩《ある》いていましたが、あぶはやはりどこまでもぶんぶん、ぶんぶん、うるさくつきまとってきました。若者《わかもの》はがまんができなくなって、とうとうあぶをつかまえて、さっきのわらでおなかをしばって、木の枝《えだ》の先《さき》へくくりつけて持《も》っていきました。あぶはもう逃《に》げることができなくなって、羽《はね》ばかりあいかわらずぶんぶんやっていました。
すると向《む》こうから、身分《みぶん》のあるらしい様子《ようす》をした女の人が、牛車《うしぐるま》に乗《の》って長谷寺《はせでら》へおまいりにやって来《き》ました。
その車《くるま》には小《ちい》さな男の子が乗《の》っていました。男の子は車《くるま》のみすを肩《かた》にかついで、たいくつそうにきょろきょろ外《そと》のけしきをながめていました。すると若者《わかもの》が木の枝《えだ》の先《さき》にぶんぶんいうものをつけて持《も》って来《く》るのを見《み》て、ほしくなりました。そこで男の子は、
「あれをおくれよ。あれをおくれよ。」
と、馬《うま》に乗《の》ってお供《とも》についている侍《さむらい》にいいました。
侍《さむらい》は若者《わかもの》に向《む》かって、
「若《わか》さまがそのぶんぶんいうものをほしいとおっしゃるから、気《き》の毒《どく》だがさし上《あ》げてくれないか。」
と頼《たの》みました。若者《わかもの》は、
「これはせっかく仏《ほとけ》さまからいただいたものですが、そんなにほしいとおっしゃるなら、お上《あ》げ申《もう》しましょう。」
といって、すなおにあぶのついた枝《えだ》を渡《わた》しました。車《くるま》の中の女の人はそれを見《み》て、
「まあ、それはお気《き》の毒《どく》ですね。ではその代《か》わりに、これを上《あ》げましょう。のどがかわいたでしょう、お上《あ》がりといって、上《あ》げておくれ。」
といって、大きな、いいにおいのするみかんを三つ、りっぱな紙《かみ》にのせて、お供《とも》の侍《さむらい》に渡《わた》しました。
若者《わかもの》はそれをもらって、
「おやおや、一|本《ぽん》のわらが大きなみかん三つになった。」
とよろこびながら、それを木の枝《えだ》にむすびつけて、肩《かた》にかついでいきました。
三
するとまた向《む》こうから一つ、女車《おんなぐるま》が来《き》ました。こんどは前《まえ》のよりもいっそう身分《みぶん》の高《たか》い人が、おしのびでおまいりに来《き》たものとみえて、大《おお》ぜいの侍《さむらい》や、召使《めしつかい》の女などがお供《とも》についていました。するとそのお供《とも》の女の一人《ひとり》が、すっかり歩《ある》きくたびれて、
「もう一足《ひとあし》も歩《ある》けません。ああ、のどがかわく。水《みず》が飲《の》みたい。」
といいながら、真《ま》っ青《さお》な顔《かお》をして往来《おうらい》に倒《たお》れかかりました。侍《さむらい》たちはびっくりして、どこかに水《みず》はないかとあわてて探《さが》し回《まわ》りましたが、そこらには井戸《いど》もなし、流《なが》れもありませんでした。そこへ若者《わかもの》がのそのそ通《とお》りかかりますと、みんなは、
「もし、もし、お前《まえ》さん、この近所《きんじょ》に水《みず》の出《で》る所《ところ》を知《し》りませんか。」
とたずねました。若者《わかもの》は、
「そうですね。まあこの辺《へん》、五|町《ちょう》のうちには清水《しみず》のわいている所《ところ》はないでしょうが、いったいどうなさったのです。」
と聞《き》きました。
「ほら、あのとおり歩《ある》きくたびれて、暑《あつ》さに当《あ》たって、水《みず》をほしがって死《し》にそうになっている人があるのです。」
「おやおや、それはお気《き》の毒《どく》ですね。ではさしあたりこれでも召《め》し上《あ》がってはいかがでしょう。」
若者《わかもの》はそういって、みかんを三つとも出《だ》してやりました。みんなは大《たい》そうよろこんで、さっそくみかんをむいて、病人《びょうにん》の女にその汁《しる》を吸《す》わせました。すると女はやっと元気《げんき》がついて、
「まあ、わたしはどうしたというのでしょう。」
といいながら、そこらを見回《みまわ》しました。みんなは水《みず》がなくって困《こま》っていたところへ、往来《おうらい》の男がみかんをくれたので助《たす》かったことを話《はな》しますと、女はよろこんで、
「もしこの人がいなかったら、わたしはこの野原《のはら》の上で死《し》んでしまうところでしたね。」
といって、真《ま》っ白《しろ》な上等《じょうとう》な布《ぬの》を三反《さんたん》出《だ》して、
「どんなお礼《れい》でもして上《あ》げたいところだけれど、途中《とちゅう》でどうすることもできないから、ほんのおしるしにさし上《あ》げます。」
といって、渡《わた》しました。
若者《わかもの》はそれをもらって、
「おやおや、みかん三つが布《ぬの》三|反《たん》になった。」
と、ほくほくしながら布《ぬの》を小《こ》わきにかかえて、また歩《ある》いて行きました。
四
その明《あ》くる日《ひ》、若者《わかもの》はまた昨日《きのう》のようにあてもなく歩《ある》いて行きました。するとお昼《ひる》近《ちか》くなって、向《む》こうから大《たい》そうりっぱないい馬《うま》に乗《の》った人が、二、三|人《にん》のお供《とも》を連《つ》れて、とくいらしくぽかぽかやって来《き》ました。若者《わかもの》はその馬《うま》を見《み》ると、
「やあ、いい馬《うま》だなあ、ああいうのが千両馬《せんりょううま》というのだろう。」
と、思《おも》わず独《ひと》り言《ごと》をいいながら、馬《うま》をながめていました。すると馬《うま》は若者《わかもの》の前《まえ》まで来《き》て、ふいにばったり倒《たお》れて、そのままそこで死《し》んでしまいました。乗《の》っている主人《しゅじん》もお供《とも》の家来《けらい》たちも、真《ま》っ青《さお》になりました。馬《うま》のくらをはずして、水《みず》を飲《の》ましたり、なでさすったり、いろいろにいたわっていましたが、馬《うま》はどうしても生《い》き返《かえ》りませんでした。乗《の》り手《て》はがっかりして、泣《な》き出《だ》しそうな顔《かお》をしながら、近所《きんじょ》の百姓馬《ひゃくしょううま》を借《か》りて、それに
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