いが立《た》って、人間《にんげん》の死骸《しがい》らしいものが天井《てんじょう》まで高《たか》く積《つ》み重《かさ》ねてありました。そしてくずれてどろどろになった肉《にく》が血《ち》といっしょに流《なが》れ出《だ》していました。
 坊《ぼう》さんは「あっ。」といったなり、しばらく腰《こし》を抜《ぬ》かして目ばかり白黒《しろくろ》させたまま起《お》き上《あ》がることもできませんでした。そのうちふと気《き》がつくと、これこそ話《はなし》にきいた一つ家《や》の鬼《おに》だ、ぐずぐずしているととんでもないことになると思《おも》って、あわててわらじのひもを結《むす》ぶひまもなく逃《に》げ出《だ》そうとしました。けれども今《いま》にもうしろから鬼婆《おにばばあ》に襟首《えりくび》をつかまれそうな気《き》がして、気《き》ばかりわくわくして、腰《こし》がわなわなふるえるので、足《あし》が一向《いっこう》に進《すす》みません。それでもころんだり、起《お》きたり、めくらめっぽうに原《はら》の中を駆《か》け出《だ》して行きますと、ものの五六|町《ちょう》も行かないうちに、暗《くら》やみの中で、
「おうい、おうい。」
 と呼《よ》ぶ声《こえ》がしました。
 その声《こえ》を聞《き》くと、坊《ぼう》さんは、さてこそ鬼婆《おにばばあ》が追《お》っかけて来《き》たとがたがたふるえながら、耳《みみ》をふさいでどんどん駆《か》け出《だ》して行きました。そして心《こころ》の中で悪鬼《あくき》除《よ》けの呪文《じゅもん》を一生懸命《いっしょうけんめい》唱《とな》えていました。そのうち、
「おうい待《ま》て、おうい待《ま》て。」
 と呼《よ》ぶ鬼婆《おにばばあ》の声《こえ》がずんずん近《ちか》くなって、やがておこった声《こえ》で、
「やい、坊主《ぼうず》め、あれほど見《み》るなといった部屋《へや》をなぜ見《み》たのだ。逃《に》げたって逃《に》がしはしないぞ。」
 というのが、手《て》にとるように聞《き》こえるので、坊《ぼう》さんはもういよいよ絶体絶命《ぜったいぜつめい》とかくごをきめて、一心《いっしん》にお経《きょう》を唱《とな》えながら、走《はし》れるだけ走《はし》って行きました。
 すると、お経《きょう》の功徳《くどく》でしょうか、もうそろそろ夜《よ》が明《あ》けかかってきたので、鬼《おに》もこわくなったのでしょうか、鬼《おに》の足《あし》がだんだんのろくなって、もうよほど間《あいだ》が遠《とお》くなりました。そのうちずんずん空《そら》は明《あか》るくなってきて、東《ひがし》の空《そら》が薄赤《うすあか》く染《そ》まってくると、どこかの村《むら》で鶏《にわとり》の鳴《な》き立《た》てる声《こえ》がいさましく聞《き》こえました。
 もう夜《よ》が明《あ》けてしまえばしめたものです。鬼《おに》は真昼《まひる》の光《ひかり》にあってはいくじのないものですから、うらめしそうに、しばらくは、旅僧《たびそう》のうしろ姿《すがた》を遠《とお》くからながめていましたが、ふいと姿《すがた》が消《き》えて見《み》えなくなりました。
 坊《ぼう》さんはそのうち人里《ひとざと》に出て、ほっと一息《ひといき》つきました。そして花《はな》やかにさし昇《のぼ》った朝日《あさひ》に向《む》かって手を合《あ》わせました。



底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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