て、難船《なんせん》したとおもった商人の持ち船が、にもつを山とつんだまま、ぶじに港へ入《はい》って来たということが分かりました。さあ、うち中の大よろこびといってはありません。なかでも、ふたりの姉むすめは、あしたにももう、いやないなかをはなれて、町の大きな家へかえれるといって、はしゃいでいました。そして、もうさっそくに、きょう、町へ出たら、きものと身の飾《かざ》りのこまものを、買って来てくれるように、父親にせがみました。
「それで、ラ・ベルちゃん、お前さんは、なんにも注文《ちゅうもん》はないのかい。」と、父はいいました。
「そうですね、せっかくおっしゃってくださるのですから、では、ばらの花を一りん、おみやげにいただきましょう。このへんには、一本もばらの木がありませんから。」と、むすめはいいました。べつだん、ばらの花のほしいわけもなかったのですが、姉たちがわいわいいうなかで、自分ひとり、りこうぶって、わざとなかまはずれになっていると、おもわれたくないからでした。
 さて、いさんで町へ出て行ったものの、いろいろめんどうな訴《そ》しょう事件《じけん》になって、船のにもつは、そっくりとり上げられ、商人は、出かけたときよりも、もっとびんぼうになって、またとぼとぼ、いなかの家へかえって行くほかはありませんでした。あいにく冬で、もうあと、うちまで十五里という所まで来て、日はとっぷりくれる、道は雪でうずまってしまいました。おまけに、大きな森ひとつとおりぬけなければなりません。さむさはさむし、おなかはすく、商人は、もうこのままここで、行きだおれになるかとおもいました。
 するうちふと、ながい並木道《なみきみち》のはるかむこうに、ぽつんとひとつ、火あかりがみえました。商人は、ほっとしながら、のっていた馬のくびを並木道のほうへむけて、道のつきる所まで行ってみますと、あんがいにも、そこに、すばらしくりっぱな御殿が立っていました。しかも、窓からは、赤あかとあかりがさしていながら、中には人ひとりいるけはいがありません。戸をたたいてみても、庭にまわってみても、やはりしんかんとしていました。そのあいだに、のってきた馬だけが、うまやの戸のあいているすきからはいりこんで、まぐさ槽《おけ》のほし草やからす麦を、がつがつしてたべていました。商人は、馬をのこして、自分だけそっと、中へはいってみましたが、やはり、たれも出てくるものも、声をかけるものもありません。そのくせ、炉《ろ》の火はかんかんもえていて、テーブルには、ちゃんと一人前のごちそうと、お酒のしたくがしてありました。
 商人は、なにしろ肌《はだ》の下まで雪がしみとおっていたので、かまわず炉《ろ》の火でからだをかわかしながら、ひとり言《ごと》のようにいいました。
「ごめん下さい。いずれ出ておいでになることとおもいますが、このおうちのご主人さまなり、お召使の方なり、どうか火にあたらせていただきます。」
 こういって、しばらく待っていましたが、たれも出てくるものがありません。時計《とけい》は、十一時をうちました。するうち、おなかがへって、気がとおくなりそうなので、テーブルにあった若鶏《わかどり》をひときれ、おっかなびっくらたべました。ぶとう酒も四五杯のみました。これでおなかができると、げんきも出てきて、ゆっくりそこらを見まわしました。やがて、十二時をうったとき、商人は、あいている戸から広間をぬけて出て、いくつもいくつもすばらしいへやを通って、さいごに、ねごこちよさそうなベッドのおいてあるへやに来ました。それをみると、もうとてもくたびれきっているので、きものをぬぐなり、ごそごそとはいこみました。
 あくる朝十時をうつまで、商人は目をさましませんでしたが、目をあいてみて、おどろいたことに、きのうまできていたぼろぎものが、さっぱりと新しいものにかわっていました。これで、たれか心のいい妖女が、この御殿のあるじなのだとおもって、窓からそとをふとのぞきますと、ゆうべの雪がきれいになくなって、花でおおわれたあずまやのある、きれいな花園になっているので、いよいよそれにそういないとおもいました。さて、もういちど、ゆうべ食事をした大広間《おおひろま》へもどってきてみますと、もうちゃんとテーブルに、朝食のしたくがしてありました。こんどはえんりょなく食事をすませると、馬はどうしたかとおもってみに行きました。すると、とちゅう、ばらの花|棚《だな》の下を通ったので、ふと、末むすめのラ・ベルにたのまれたことをおもいだして、おみやげにひと枝、ばらを折りました。とたんに、ううという、ものすごいうなりごえがしました。そして、みるからおそろしい一ぴきの怪獣《かいじゅう》が、あらわれるなり、せなかを立ててむかってきたので、商人はおびえ上がって、気がとおくなり
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