或る精神異常者
モーリス・ルヴェル
田中早苗訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)濃い海碧《あお》色を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しいん[#「しいん」に傍点]と
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 彼は意地悪でもなく、といって、残忍酷薄な男でもなかった。ただ非常にかわった道楽をもっていたというだけのことだ。しかしその道楽もたいていやりつくしてしまって、いまでは、それにもなんら溌剌たる興味を感じないようになったのである。
 彼はたびたび劇場へでかけた。けれど、それは演技を観賞したり、オペラ・グラスで見物席を見まわしたりするのが目的ではなくて、そうしてたびたびいっているうちに、とつぜんに劇場の失火というようなめずらしい事件にでっくわすかもしれぬという、一種の期待からであった。
 また、ヌイエの市へでかけては、いろいろな見世物小舎をかたっぱしからあさりあるいたが、それもある突発的の災難、たとえば、猛獣使いが猛獣に噛みつかれるというような珍事を予期してのことであった。
 ひと頃、闘牛見物に熱中したこともあったが、じきにあいてしまった。牛を屠殺するあの方法があまりに規則正しく、あまりに自然に見えるのがあきたらなかった。それに負傷の牛の苦悶を見るのもいやであった。
 彼が真からあこがれたのは、思いもかけぬときにとつぜんわきおこる惨事、あるいは何か新奇な事変から生ずる溌剌たる、そして尖鋭ななやみそのものであった。実際、オペラ・コミック座が焼けた大火の晩に、彼は偶然そこへ観劇にいっていて、あの名状すべからざる大混雑の中から不思議にもけがひとつせずににげだしたのであった。それから、有名な猛獣使いのフレッドがライオンに喰い殺されたときは、檻のすぐそばでまざまざとその惨劇を見ていたのだ。
 ところが、それ以来彼は芝居や動物の見世物にぜんぜん興味をうしなってしまった。
 もとそんなものにばかり熱中していた彼が急に冷淡になったのを、友だちが不思議におもってそのわけをたずねると、彼はこんなふうに答えた。
「あんなところには、もう僕の見るものがなくなったよ。てんで興味がないね。我れ人ともにアッというようなものを僕は見たいんだ」
 芝居と見世物という二つの道楽――しかも十年もかよいつめてやっと渇望をみたしたのに、その楽しみが無くなってからというものは、彼は精
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