した、小田君は心から私のことを心配してくれているようで私の顔を見る度に催眠剤だの魔酔薬だの(遂に私は刹那的の眠りを求めて魔酔薬まで使う深みに堕ちていたのです)をやめるように奨めてくれるのでした。けれど今日の私には到底そればかりは出来ませんでした。薬を止めること、それはとりもなおさず私にとって『死』なのです。それで近頃は彼も諦めて私が決して止めないと思ったのか、尋ねて来てくれてもただ黙って私の顔を見詰るばかりでした。しかし今度は反対に私の方が熱心になって、彼にこの素晴らしい世界を知らせたいばかりに薬を奨めるのですが、彼は頑としてそれを容れてくれないのでした。
 そういう状態がかなり続いた後私はとうとう決心したのです。非合法な方法を以ても彼にこの素晴らしい世界を知らせてやりたいと――。
 それは青く晴れた日でした。小田君が尋ねて来たのです。私はいつになくうきうきした気持を持て余しながら、彼に沸かしたての紅茶を奨めたのです。勿論それには催眠剤が入れてありましたが、彼は私がなんとなく晴れ晴れした顔をしているのを喜びながら、軽くそれを飲んで了いました。
 やがて椅子によった彼の返事は段々間のびがして来ました、私はそれを見詰めながら長い夢の世界の魅力を話してから最後に
「さあ、君も僕と一緒に夢の世界へ行こうよ」
 そういいますと彼は
「ああ、ああ――」
 とただうなずくように頭を振って椅子に埋まって了いました。私は早速ガーゼを持って来て小田君の鼻と口を覆い、クロロフォルムを一滴一滴と垂らしかけたのです。クロロフォルムのある非常によい甘いにお[#「にお」に傍点]いが部屋の中にほんのり拡がりました。
 始め二三回彼は頭を振ったようですが、それっきりクロロフォルムの甘いにお[#「にお」に傍点]いをむさぼっているようでした、やがて発揚状態になって顔が少し赤くなって来ましたが私は構わず垂らし続けました。
(小田君はどんな素晴らしい夢を見ることだろう)
 そう思うとなんとも例えようのない程嬉しくなって時々こみ上げて来る笑いを怺《こら》えきれず二人きりのガランとした部屋の空気をクックックッと震わしたりしました。そしてもういいかしら、そう思って気のついた時は小田君の鼻を覆ったガーゼはクロロフォルムでぐっしょり濡れていたのでした。
       ×
 暫く私はそばの机に頬杖をついて小田君の様子を見ていましたが彼はなかなか眼をさまそうとはしません。待ちくたびれた私もいつか机に倚《よ》ったまま夢の中へ吸いこまれて行きました。それは小田君と二人で赤や黄や綺麗なチューリップの花園を駈廻っている夢でした、そんなことでその夜は送ってしまったのです。
 翌日小田君の家の人が私のところへゆくと出たきり帰らないと心配して尋ねて来たのですが、小田君はまだぐっすり寝込んで身動きもしないのでした。すこし変だというので小田君の弟がゆり起したのですが、それきり眼をさまさないのです。医者が来ましたが、その医者のいうのでは小田君は催眠剤の中毒で死んだというのです。死んだと。
 私には信じられませんでした。小田君が死ぬなんてことは考えられないことでした。ゆうべだって元気に花園(どこだったか忘れたが)を駈廻っていたじゃないか、きっと小田君はいい夢を、面白い夢を見ているので起きようとしないのだ。――そうより外に私には考えられませんでした。
 小田君はきっと面白い夢をみているのです。私に知らせないなんてずるいぞ、そう思うと私は嬉しくて嬉しくてしようがないのでした。小田君だけが私の夢の世界を知ってくれたのだ、愉快じゃないか、私は跳び廻って思うさま笑って笑って笑い抜きました。

 そこでふい[#「ふい」に傍点]と記憶がきれて、気がつくとこの精神病院の赤茶けた畳の上にいるのでした。そうしてもう二週間にもなったでしょう。到頭人々は私を気違いにしてしまったのです。誰が気なんか違うものですか、小田君だって決して死んではいないのです。もう少し前まで私とどこかの喫茶店で詩の話をしていたじゃありませんか、きっと、もうすぐ「やあ、どうした」と尋ねて来るに違いありません。
 私は時々来る冷たい顔をした医者にこの話を熱心にするのですが彼等はてんで聞いてもくれないのです。私はこの素晴らしい世界を誰も知ってくれないのが淋しくてたまらないのです。
[#地付き](『秋田魁新報』夕刊、昭和七年六月三、四、七〜九日)



底本:「火星の魔術師」国書刊行会
   1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「夢鬼」古今荘
   1936(昭和11)年発行
初出:「秋田魁新報夕刊」
   1932(昭和7)年6月3、4、7〜9日
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年12月30日作成
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