の中でも薄いながら色彩を感じて来たのです。そしてその色彩は次第に濃く遂《つい》には普通の色と少しも変りがわからなくなって来たのです。恐ろしいことです、私は寝ても覚《さ》めてもいつも同じ景色を眺めて暮しているのです。その結果いよいよ夢と現実とが二重写しのようにどちらともつかずになって来たのです。今窓外には蒼白い百合の花が頭を重たげに咲いていますが、可怪《おか》しなことにはその背景に桜が繚爛《りょうらん》と咲き、仮装の人たちがきびすを接して往来しているのです――私はそれを窓にもた[#「もた」に傍点]れて、さも当りまえのように平気で眺めているのでした。
その他いろいろなちぐはぐな出来事があとからあとから起りました。或る日私は上野公園を、とうに死んだ筈の友人と歩きながら葉桜の感触を批評し合いました、その時どうしたはずみか桜の樹にいた毛虫が落ちて私の襟元《えりもと》にさわり、はっとした途端に私は書斎に還《かえ》されましたが不思議なことには今時分いる筈のない毛虫に、刺されたとしか思えない(診て貰った医者もそういいました)赤いはれ[#「はれ」に傍点]が襟元に残っていたのでした。
こんな状態が続きますので学校の方はとうとう中途でやめてしまい、幸か不幸か別にその日その日には困らなかったので日がな一日この不思議な世界に浸り切っていたのです。
×
だが一方から見れば私は幸福でした、現実のこせこせした問題から隔離されて自由に空を飛び、水に潜って、古い形容詞でいえば千変万化の生活を楽んでいたのです。私の周囲には四季の花が馥郁《ふくいく》と匂う日が続くかと思うと、真夜《しんや》に誰もいないホテルをうろつくこと、又は夢の中での殺人(恐ろしいことにはそれと全く同一のことが新聞紙に報ぜられ、これはその後迷宮入りのようです)などの話がまだまだあるのですが、余り筆を執ったことのない私はもう大部疲れて来ましたので、早く結末、現在私がなぜこんな精神病院なんかに入れられたか、を書くことにします。
その後私はこの素晴らしい世界を私一人が独占していることが罪悪のように思えて来ました、どうか他の人にもこの知られないも一つの世界を知らせてやりたかったのです――恰度そこへ登場したのが親友小田君でした、私がこんな生活をしているので多くいた友人も一人二人と次第に消息を断ってたった一人残ったのが小田君でした、小田君は心から私のことを心配してくれているようで私の顔を見る度に催眠剤だの魔酔薬だの(遂に私は刹那的の眠りを求めて魔酔薬まで使う深みに堕ちていたのです)をやめるように奨めてくれるのでした。けれど今日の私には到底そればかりは出来ませんでした。薬を止めること、それはとりもなおさず私にとって『死』なのです。それで近頃は彼も諦めて私が決して止めないと思ったのか、尋ねて来てくれてもただ黙って私の顔を見詰るばかりでした。しかし今度は反対に私の方が熱心になって、彼にこの素晴らしい世界を知らせたいばかりに薬を奨めるのですが、彼は頑としてそれを容れてくれないのでした。
そういう状態がかなり続いた後私はとうとう決心したのです。非合法な方法を以ても彼にこの素晴らしい世界を知らせてやりたいと――。
それは青く晴れた日でした。小田君が尋ねて来たのです。私はいつになくうきうきした気持を持て余しながら、彼に沸かしたての紅茶を奨めたのです。勿論それには催眠剤が入れてありましたが、彼は私がなんとなく晴れ晴れした顔をしているのを喜びながら、軽くそれを飲んで了いました。
やがて椅子によった彼の返事は段々間のびがして来ました、私はそれを見詰めながら長い夢の世界の魅力を話してから最後に
「さあ、君も僕と一緒に夢の世界へ行こうよ」
そういいますと彼は
「ああ、ああ――」
とただうなずくように頭を振って椅子に埋まって了いました。私は早速ガーゼを持って来て小田君の鼻と口を覆い、クロロフォルムを一滴一滴と垂らしかけたのです。クロロフォルムのある非常によい甘いにお[#「にお」に傍点]いが部屋の中にほんのり拡がりました。
始め二三回彼は頭を振ったようですが、それっきりクロロフォルムの甘いにお[#「にお」に傍点]いをむさぼっているようでした、やがて発揚状態になって顔が少し赤くなって来ましたが私は構わず垂らし続けました。
(小田君はどんな素晴らしい夢を見ることだろう)
そう思うとなんとも例えようのない程嬉しくなって時々こみ上げて来る笑いを怺《こら》えきれず二人きりのガランとした部屋の空気をクックックッと震わしたりしました。そしてもういいかしら、そう思って気のついた時は小田君の鼻を覆ったガーゼはクロロフォルムでぐっしょり濡れていたのでした。
×
暫く私はそばの机に頬杖をついて小田君の様子を
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