下にくり展げられて、これが昼間であったならば、どんなにか素晴らしい眺めであろうと思われた。が、今は陽も既に落ちて、うすら明りの中に、薄墨を流したような、襞《ひだ》を持った海が、ふっくら[#「ふっくら」に傍点]と湛《たた》えられ、空には早くも滲出《にじみで》た星が、次第にうるみを拭ってキラキラと輝きはじめていた。
然《しか》し、その素的《すてき》な眺望にも増して、私の眼を欹《そばだ》たせたのはその八畳と四畳半の二間きりの亭《ちん》のような小住宅《こじゅうたく》に、どうして引上げられたのか、見事な黒光りをもったピアノが一台、まるで王者のように傲然《ごうぜん》と君臨している様であった。
『自炊をされているんですか――』
やがて私は、一向に台所道具が眼につかないので訊いてみた。
『いや、町の仕出屋から三度三度とっているんですよ……、それも此処《ここ》が不便なもんですから出前の小僧の奴に月三円のコンミッションを約束させられたという曰くがあるんですが、でもここなら幾ら日がな一日、ピアノを叩いていようと、大声で唄っていようと、一向気兼ねがありませんからね』
『まったく、うまいところがあったもんですね』
と、私は無意味に合槌《あいづち》を打って、
『で、もう大分作曲されましたか』
『いや、もうそろそろ一年が来ますが、まだ序の口にも達しませんよ』
『へえ、たいしたもんですね、なんですか、シンフォニーですか』
『いやいや、ただの流行歌ですよ――』
思わず唖気《あっけ》にとられた私は、その男の顔を見かえした。
ところが、その男は、至極《しごく》真面目な顔をしていうのであった。
『流行歌です、――流行歌ですが、僕のはありふれた流行歌ではないんです。必ずヒットしなければならぬ、という論理的に割出された曲なんですよ……
流行歌の数《すう》は、実に夥《おびただ》しいものです。しかしその結果、どこかで使われたメロディが、他の歌にちょいちょい出て来ます(これはあなたも既にお気づきでしょうが)それはそうなるべきで、人間の声に限度があり、テンポにも制限があるとすれば、いつかは作曲も、殊に流行歌なんてものはメロディが割に単純なもんだから、じきに種切れになるわけじゃないでしょうか、だから、流行歌のようなものには、他で一度ヒットしたメロディが、屡々《しばしば》、編曲という名で現われたり、或はその一
前へ
次へ
全19ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング