来たかと思われるこの頃だのに、もうむくむくと肥った青蠅《あおばえ》が、ぶーんと飛立つのが見られ、ひどく不潔な彼の生活が其処に投出されているかのように眺められた。
春日は、ピアノも何もない殺風景な部屋の中に、垢《あか》じみた蒲団を敷っぱなして、独りゴロンと寝そべっていた。近寄って見ると、気のせいか、彼の顔色は土色に褪《あ》せ、カサカサした皮膚が、痛々しくさえ思われた。
『や――』
彼はゆっくり起上って、笑顔を見せた。
『しばらくでしたね、ま、どうぞ――』
『結婚されたそうじゃないですか』
これが、私の訪問の口実であった。
『結婚? いいや今は一緒にいる、っていうだけですよ。こんどの女もネネのように、機会さえあれば僕を踏台にしてゆこうという女ですよ、それはわかっているんだけれど、……』
『今は――』
私は一眼《ひとめ》で見渡せる家の中を、もう一遍見直した。
『いま、町まで買い物に行っていますよ』
『ばかに顔色が悪いようですが、何か――』
『これですか』
彼は痩《や》せた手で顔を撫でると、
『病気のせいでしょう……ジフィリスになってしまったんですよ、ふふふふ』
『それは――』
私は眉《まゆ》をひそめて、花子という女からだな、と思いながら、
『そんなら早く癒《なお》さなけりゃいかんでしょう、医科を卒《で》られたんだから、自分で静脈注射も出来ませんか……』
『いや、もう病気を癒そうなんて気力は、疾《と》うになくなってしまった僕ですよ。未だにそれだけの気力を持っているほどなら、一《い》ッそネネを殺ってしまっていたでしょう、ふッふふふ……ネネは僕に何一つ思い出を遺《のこ》してはくれなかったんですが、こんどの女は、こんなに消えぬ思い出を与えてくれたんです、久劫《くごう》に消えぬ、子孫にまで遺ろうという、激しい恋の思い出の華を……』
私はこの狂気《きちがい》染みた彼の言葉に、返事を忘れてしまった。
(春日は、頭を冒されたのではないか――)
×
早々に引上げた私は、その帰り道、あの崖の細路《ほそみち》の中ほどで、一人の女と行き違った。この路の果てには春日の家しかないのだから、その女が私の興味を惹《ひ》いた花子であることは疑いもないことであったけれど、その女は、余りにも、私の想像とはかけ違ったものであった。
真ッ昼間だというのに、黄色のドーラン化粧に、青のア
前へ
次へ
全19ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング